今人の心を三輪の山にてぞ‥‥

0511292001

−表象の森− 夏の汗と不易流行


やはり、夏の汗は甲子園の高校野球がよく似合う。
早実駒大苫小牧による決勝戦は、延長15回にても決着つかず、再試合となって勝負は明日へと持ち越された。
勝戦の延長引分けによる再試合は、青森・三沢高校太田幸司が悲運のヒーローを演じた1969(S44)年以来だという。
TVの画面を通して早実の斉藤投手の力投を見ながら、私の脳裏に甦ってきたのは、太田幸司もさることながら、古い話でまことに恐縮だが、あれは1958(S33)年の準々決勝だったか、坂東英二を擁した徳島商と富山・魚津高との延長18回引分けの試合だった。ちなみにこの延長戦、坂東投手は魚津から25の奪三振を記録し、翌日の再試合も投げきって勝利の女神を引き寄せるのだが、この大投手と熱闘を演じた魚津ナインたちの敢闘の汗は、清新な情熱の迸る結晶そのものだった。


高校野球も時代とともに移ろいゆきずいぶんと様変わりしてきたこと、とりわけ野球留学という名の他府県への流出が、甲子園出場の早道とばかり全国に席捲しているという問題もあり、野球にかぎらず幼少からのスポーツ・エリート育成のあり方が、この社会に一定のネットワークやパターンを形成し、構造化されるようになってしまったのを見るにつけ、スポーツの本然たる姿は隠され埋没してゆくことに、些かなりとも焦慮の念を抱かざるを得なかったのだが、
偶々休日の昼下がり、見るともなく眼にしたこの試合は、高校野球における、いまだ不易なるもの、本然と変わらざるものを、この私にも垣間見せてくれたようで、少しばかり胸の熱くなるものをおぼえたことを記しておきたい。


「不易流行」とは、蕉風俳諧の理念として芭蕉が説いたものだが、はじめは<不易>と<流行>という二つの句形ありきと受けとめられたようだが、芭蕉の真意は然に非ず、不易は本(もと)、流行は風(ふう)と、次元の異なるものと見るべしで、<不易流行>は一句の内に込められている、込められ得ると見るべきだと、弟子たちにも認識されるようになったといわれる。
岩波の仏教辞典をひもとけば、
<本>とは、宋学的世界観にもとづく<風雅の誠>という理念である。それが<新しみ>を求めて創られる句の<姿>にあらわれるのを<流行>という。
去来の「三冊子」にては、「不易を知らざれば実(まこと)に知れるにあらず、不易といふは、新古によらず、変化流行にもかかはらず、誠によく立ちたるすがたなり」と、人口に膾炙した章句となる。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−39>
 橘の蔭履む路の八衢に物をそ思ふ妹に逢はずて   三方沙弥

万葉集、巻二、相聞。
生没年、伝不詳。持統朝から文武朝に歌を残す万葉歌人
八衢(やちまた)−いくつかの道の分かれるところ
邦雄曰く、詞書に「三方沙弥、園臣生羽の女を娶(ま)きて、未だ幾許の時を経ずして病に臥して作る歌三首」とあるその一首。上句は第四句を導き出す序詞ではあるが、傑作の黒白映画の一場面を見るように夏の繁華街の橘並木の蔭と、行き交う人を活写して、結句の歎きに精彩を添える。逆に下句の悲しみは上句のための、抒情的な修飾をしているかにも見える、と。


 今人の心を三輪の山にてぞ過ぎにし方は思ひ知らるる   前斎宮甲斐

金葉集、恋下、恨めしき人のあるにつけて昔思ひ出でらるる事ありて。
生没年不詳、天永元(1110)年、第56代斎王・恬子(やすこ)内親王につき従った女官・甲斐のこと。
邦雄曰く、昔の安らぎ、来し方の幸せが、今ようやく身に沁みて思われる。冷たい人の心を見たゆえに。詞書も歌の心を語っているが、三輪山と杉は数多の恋歌の本歌となった古今・雑下の「わが庵は三輪の山もと」。甲斐は千載集にいま一首「別れゆく都の方の恋しきにいざむすびみむ忘れ井の水」が入選、堀河院皇女喜子内親王群行の時の作と伝える、と。


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