満潮の流れ干る間を逢ひがたみ‥‥

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−表象の森− 円空の音楽寺と鉈薬師を訪ねて


一昨日(8/21)のことだが、円空仏の12神将探訪とばかり名古屋方面に出かけた。
当初、車で行くつもりだったが、ブログで知り合った名古屋在住のT君が案内役を買ってくれるというので、お言葉に甘えて彼の車で移動することに。
という訳で、家族を伴っての初体験の電車の旅となったのだが、もうすぐ5歳になる幼な児は、なにしろ大阪市内の地下鉄くらいしか乗ったことがないから、すこぶるご機嫌だった。難波から近鉄の名古屋行は車中2時間あまり、幼な児には退屈するほど長くもなく手頃なものだったろう。


名古屋駅に降り立って待つほどのこともなくT君の車がやって来た。
先ずは一路、江南市の音楽寺をめざして走ること一時間あまり。ごくご近所にお住まいなのだろうが、総代の坪内さんというお爺さんが、約束の11時半にはまだ少し間があるのに、お堂の前に立って待っていてくれた。
二、三年前に建てられたというまだ真新しい堂舎に入ると、正面中央に薬師如来と日光・月光菩薩の三尊像、左右に5体と6体、12神像のうち戌の像だけが欠けており、後世の模像が別に置かれている。その戌の像は、その昔、何故かだれかに持ち去られたのであろうが、現在、安城市の長福寺に無事在ると確認されているそうな。
他に、護法神像と荒神像が鎮座しているが、写真の荒神像を見ればおおかた納得もいこうが、この像、現代アーティストたちの覚え頗るよろしく、全国の円空展示企画には引っ張りだこだそうで、坪内さんによれば、今や世界で最も著名な円空仏だと曰う。昨年もドイツ・ベルリンをはじめ3ヶ月間、海外を巡歴してきたとのことだが、近・現代芸術のフィルターを通したとき、この大胆なデフォルメと省略の効いた像が世界中で注目を集めるのはよくわかる。
音楽寺所蔵のこれら円空仏が、国はおろか県指定でさえなく、江南市の指定文化財だというから、些か驚かされもする。
40分ほど滞在したか、総代さんに謝して別れた後は、次なる目的の鉈薬師をめざして名古屋市内へと戻る。千種区覚王山界隈の中心をなす日泰寺の縁日は毎月21日とかで、近くの鉈薬師もこの日のみ円空仏を拝観できるというので、これに合わせての今日の計画である。


T君は日泰寺山門のすぐ西側の駐車場に車を停めて、ちょうど昼時だし先ずは腹ごしらえと、一行四人は参道に並んだとりどりの露天を見ながら下り行く。今日の名古屋は曇り空のこととて暑さも少しばかり和らいでいるとはいうものの、日陰のないコンクリート道は輻射熱でやはり暑い。月曜日というせいか月に一度の縁日風景としては、往来の人々も露天の数も少しさびしい気がする。
T君存知よりのインド風カレーの店は参道を半分あまり下ったところにあった。店内は黒塗りの古い木造家屋で、ヒンドゥー教の神様の絵やインド更紗などが壁に掛けられ、それらしきムードを醸し出してはいる。四人四様の注文にゆっくりと一品一品がテーブルに運ばれ、出揃ったところで、お冷やで乾杯の真似事などして一斉に食す。ふだん昼食を摂らない習慣の私などには些か胃が重くなるほどにも満ち足りて、もと来た参道を山門の方へと戻りゆく。昼食になにやら別の期待もあったらしい幼な児が少々むずかるので、露天のかき氷屋さんに暫時寄り道。着色剤がたっぷりのどぎついほど真っ赤なシロップのかかった氷に、幼な児は歯も舌も赤く染まるほどにご機嫌で頬ばりつづけていた。


日泰寺山門の西側を歩いて、細い道を左へ折れてさらに道なりにゆくと、こんもりと樹々に囲まれた鉈薬師のお堂が見えた。
此処で目的の二つ目の円空12神将とめでたくご対面出来るはずであった。ところが好事魔多し、というより事実は私の手抜かり以外のなにものでもなかったのだが‥‥。
私たちがちょうどお堂の前庭に立った時、堂横から中年の夫婦者らしき二人、その後ろから彼らよりもっと年配の男性が一人出てきた。その中年男性が、われわれの姿を一瞥するや、まるで独り言を呟くように、しかも此方に視線を合わせないようにしながら、ぶつぶつという言葉に私は耳を疑った。
「時間だからもう閉めさせていただきました。」 たしかにそう聞こえた。そう言いながら彼らは此方に眼もくれずそそくさと立ち去ってゆくのである。愕然としながらさらにお堂に近寄ったところ、堂前に掛かった小さな白い札に、「拝観は毎月21日、時間は10:00から14:00まで」とある。
脳天にガンと一発喰らったようなものだった。私たちが到着したのはすでに午後二時を廻って15分になろうとしていたのだった。念には念を入れて公開時間まで厳密にチェックをしていなかった自分の手抜かりに打ちのめされつつ、直かに物言わず立ち去る中年男性らの態度に無性に腹を立てつつ、私は一瞬言葉を失い立ち往生してしまったのだった。
堂の格子窓から、まだ仄かな明かりの灯る堂内がかすかに覗え、堂内左側に並ぶ12神将の六体の一部がうっすらと見えるのを、目を凝らすようにして覗き見ていると、先刻、中年二人組とは別の方角へ立ち去っていった年配の男性がいつのまにか戻って来ていたとみえて、申し訳なさそうに私たちに声をかけてきた。
「警備会社でセキュリティ管理されているから、入れてやろうにもどうにもできない」とのこと。どうやらこの人はご近所に住む堂守さんのような人らしい。そして夫婦者と見えた中年二人は鉈薬師、別名医王堂の所有者筋であろうか。
堂守さんはそういいつつ、これは先刻の音楽寺の総代さんもそうだったが、ご当地自慢を得意気に語り出す。「此処は、あの有名な梅原猛さんだって、誰が来たって、公開の21日以外はお断りしとります。」と曰うたり、「昔の話で、これは聞いた話じゃが、棟方志功さんが、この円空さんを見て、わだがお父だばと言って、抱きしめなさったと。」などと仰るのだが、さて、棟方志功がこの鉈薬師の12神将を観たのがいつだったのか、果たしてあの「釈迦十大弟子」を生み出す前だったのか、後だったのか、この一点は私の大きな関心事なのだが、そんなことはこの堂守さんに確かめようもないから、黙って相槌を打つしかないのだが、その前にせよ後にせよ、志功が鉈薬師の12神将を観ていたということはどうやら動かない事実らしい。


抑も、鉈薬師の円空12神将像を写真集で見たとき、棟方志功の「釈迦十大弟子」と、構想といいその形式といい、木像と版画の手法は違えど、あまりにも酷似している、同根類似の発想そのものではないか、とどうしても思ってしまうのだが、それは志功がこの12神将そのものから発想を得ているのだとしか思えぬし、時空を超えた円空と志功の、稀にあり得る偶然の一致という可能性についても、ありえぬことではないとも考えつつ、否、やはり直かにこの円空仏にまみえたからこそ、志功は啓示を受け、その導きのままにおのずと「釈迦十大弟子」が成ったのではないか、との思いがだんだんと膨らんできてしかたがないのである。
ずいぶん前に私は、長部日出雄が書いた「鬼が来た−棟方志功伝」をかなり印象深く読んではいるのだが、そのなかで志功と円空仏との出会いについて明瞭に記されていたものかどうか、この疑問に答えてくれる記載があったかどうか、いくら記憶を呼び戻そうとも思い出せないで、疑問氷塊は暗礁にのりあげたままなのである。
この問いの決着は早晩どうしてもつけないわけにはいかない私ではあり、宿題はいよいよ大きくなった一日でもあった。


といった次第で、残念ながら鉈薬師の12神将をまじかに観ることは叶わず、あらためての機会を得なければならなくなってしまったが、この日帰りの電車の旅は、その口惜しさを残した分、却って意義あるものになっているのかもしれぬと思いかえし、わが身を慰めつつ、またぞろT君の車に身を預けて名古屋駅まで送ってもらい、帰路についたのだった。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−40>
 満潮の流れ干る間を逢ひがたみ海松の浦によるをこそ待て   清原深養父

古今集、恋三、題知らず。
生没年不詳。舎人親王の末裔といわれ、清少納言の父元輔は孫。琴をよくし、古今集の有力歌人だが、三十六歌仙に入らず。小倉百人一首に「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ」。古今集以下に41首。
邦雄曰く、潮流の干る間=昼輭は人目を憚り、海松(みるめ)=見る目の浦に寄る=夜を待つという。縁語と懸詞が裏表に絡み合って、水に身を任せたかの不安で冷え冷えとした心象風景が浮かんでくる。新古今には「恨みつつ寝る夜の袖の乾かぬは枕の下に潮や満つらむ」が採られ、これまた「寄潮恋」の趣あり。古今集の歌の方に、深養父の個性はうかがい得よう、と。


 なごの海潮干潮満つ磯の石となれるか君が見え隠れする   源頼政

従三位頼政卿集、恋、時々見恋。
なごの海−歌枕だが、越中国摂津国丹後国と諸説。那古の海、奈呉の海、名児の海とも、また奈呉の浦、奈呉の江とも。
邦雄曰く、愛人の顔が見えみ見えずみ、浜辺の石が潮の満干で隠顕するのと同様だとの意を、「石となれるか」と言い伏せ、一首に泣き笑いに似た諧謔味を漂わす。破格な発想と磊落な修辞では並ぶ者のない武者歌人。この歌など、まるで20世紀の「劇画」の手法を先取りしているようだ。「なごの海」は、摂津が「那古」、越中では「奈呉」だが、いずれか、と。


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