はるかなる唐土までも行くものは‥‥

0608210121

−表象の森− 子守の神


円空が詠んだという歌一首。

  これや此くされるうききとりあげて子守の神と我はなすなり


「うきき」は「浮き木」、
打ち棄てられた流木の腐れ木のごとき材に、
鑿や鉈をふるい数知れぬ仏を彫りつづけたわけだが、
「子守の神」というのがいい、
たとえ野辺に朽ち果てようとも、
一再ならず、無辜の民の祈りを喚起したなれば、
おのが生命を吹き込んだ甲斐もあろうというもの。


どういう宿業、宿縁が、かほどの徹しようを可能にしたか、
かならずしも円空にかぎったことではないが、
私が、知りたいと思い、掴みたいと願うのは、そのことのみ。
だが、これはもう、そのまま自問自答の世界なのかもしれぬ‥‥。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−45>
 袖振るはほのかに見えて七夕のかへる八十瀬の波ぞ明けゆく   後二条天皇

後二条院御集、秋、二星別。
邦雄曰く、七夕歌「二星待契」、「二星逢」に続いて、この別れの歌が見える。あたかも眼前の、地上の河辺で、後朝の二人が袂を分つ趣、とくに「袖振るはほのかに見えて」の的確な表現は生きている。惜しむ名残を言外に濃く匂わせて、表には現わさぬところも老巧と言うべきだろう。ちなみに「待契」は、「心あらば川波立つな天の河船出待つ瀬の秋の夕風」、と。


 はるかなる唐土までも行くものは秋の寝覚めの心なりけり   大貳三位

千載集、秋下、題知らず。
生没年不詳。藤原賢子。母は紫式部中宮彰子に仕え、藤原兼隆に嫁したが、後正三位太宰大弐高階成章の妻となった。小倉百人一首に「ありま山ゐなの篠原かぜ吹けばいでそよ人を忘れゆはする」、後拾遺集以下に37首。
邦雄曰く、千載・秋下の巻頭第一首。歌人としての紫式部には厳しかった俊成が、彼女の息女の歌才には敬意を表したことになる。爽快、縹渺、悠々として、眼の覚めるような調べであり、二十一代集の秋歌中、絶唱十首に数えてもよかろう。後の世に数多の本歌取りを生み、その中には定家の「心のみ唐土までも浮かれつつ夢路に遠き月の頃かな」を含む、と。


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