何となくものぞかなしき菅原や‥‥

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−表象の森− フロイト=ラカン: 「ラメラ」⇔「リビード、「ファルス」⇔「ファルス」、「転移」⇔「転移」
   ――Memo:新宮一成立木康介編「フロイトラカン講談社より

「ラメラ」⇔「リビード
・「円なる一体」と「無機物」、生の欲動は前者を、死の欲動は後者をめざす。
性的なエネルギーがめざすのは、全体性、完全性、「円なるもの」である。「全体」は「一」といってもよい。「一の線」、「大文字の一者」。


「ファルス」⇔「ファルス」
・「ファルス期(男根期)」とは、男の子も女の子も、男性性器にだけ興味を示す時期。ほぼ幼稚園期頃の年齢に相当し、エディプス期とも一致する。
「有ったり無かったりする」という属性によって、超越的な欲望の存在を指し示す。つまり「ファルスは大文字の他者の欲望のシニフィアン」なのである。
子どもによって「他者の欲望」は作られる。なぜなら「そこにその欲望のシニフィアンがあるから」である。シニフィアンが先にある。そしてそこから「他者」の存在とその欲望の働きが主張されるのだ。
ファルスは、超越者の欲望が、人間界に導入されていることを、人間に示すシニフィアンなのである。子ども時代に、人間は超越的な他者の意志を仮定するこのような思考習慣に囚われ、公式の倫理とし、また生活習慣病として生きてゆくことになる。その病から癒えて、どのような別の習性、あるいは人間的な生き方を作り出せるかが、精神分析の語らいの目指すところとなる。


「転移」⇔「転移」
・転移には必ず両面がある。無意識の欲望を運んでくるという<促進>の側面と、現下の感情関係という蓋によってその開示を拒むという<抵抗>の側面である。
欠けた対象、失われた対象の発見、そうした対象を己が欲望しているというまさにそのことを発見することに他ならない、その瞬間にこそ「転移」が発生する。
おのれの欲望は、見つけたと思ったら大文字の他者の欲望にすりかわっていたという形で、発見されるということ。
私たちの欲望は、他者の欲望が私たちに「転移」することによって、可能になったのである。私たちがあれこれの対象を欲したり望んだりするにあたっては、欲望する私たち自身の存在が、何者かによって欲望されていなければならない。欲望するために欲望してもらう。すなわち欲望は社会的に「転移」される。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−90>
 わが恋は古野の道の小笹原いく秋風に露こぼれ来ぬ  藤原有家

六百番歌合、恋、旧恋。
邦雄曰く、右は慈円の「恋ひ初めし心はいつぞ石の上都の奥の夕暮の空」で、直線的な勁(ツヨ)い調べと左、有家の小刻みな悲しみに満ちた調べは、誠に好ましい対照で、俊成は「よき持」とした。右方人は結句の「来ぬ」を嫌ってけちをつけるが判者はこれを斥けて「殊に宜しくこそ聞え侍れ」と推称する。新古今入選「呉竹の伏見の里」と共に代表作。


 何となくものぞかなしき菅原や伏見の里の秋の夕暮  源俊頼

千載集、秋上、題知らず。
邦雄曰く、古今・雑下の詠み人知らず歌「いざここにわが世は経なむ菅原や伏見の里の荒れまくも惜し」等の下句本歌取りはさておき、上の第一・二句「何となくものぞかなしき」の、曲のない虚辞に似た十二音が、意外な、溢れるばかりの情感を漂わす理外の理を、篤と味わうべき作であり、俊頼の代表作中に数える所以である。千載入選歌53首、と。


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