入相は檜原の奥に響きそめて‥

0511270791

−表象の森− 音をはこぶ
    ――高橋悠治「音楽のおしえ」晶文社刊より――

竹の管に息をふきつける。
内側の空気の柱がはげしくゆれる。
これが音だ。
ゆれが安定し、音は消える。
瞬間の音は偶然だ。


音が消えぬうちに、できかかるバランスを
つきくずす。
それはなれた手ではなく、
注意ぶかい耳、
そばだてた耳のしごと。
これをくりかえし、
音をまもる。


意志をもってしなやかに音をはこび、
意志をもって音をたちきれ。
自然は安定にむかい、
耳はそれにさからう。


きくというのは受動的な状態ではない。外に耳を向けて、すべての音をききとろうとすると、自分の位置に極端に敏感になる。外へひろがるほど、内へ集中する。それは積極的な反省行為だ。
音のイメージは、きく行為をさまたげる。きくのをやめると、音はそれぞれの位置におさまって、まとまったかたちをつくる。イメージの認識でくぎられ、つくったイメージをこわすきく行為でさきへすすむ、往復運動。
一定の安定がくずれて、両極のあいだを往復するのが振動だとすれば、ちがう周期の干渉による瞬間的な局部変化は、音をつづける力だ。
くだけた波から、あたらしい波がたちあがる。


おなじもののいくつもの演奏が同時に、すこしずらされてきこえると、おもいがけない細部がうかびあがり、全体は空間的なひろがりをもつ。これらのずれのあいだにきこえるあたらしい音の関係をとりだし、なぞりながら協調することによって、展望がすこしかわる。
もとの音のながれと同時に「注釈」をつけたすことができる ( running commentary )。注釈を注釈することもできる。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−91>
 さ夜ふけて蘆のすゑ越す浦風にあはれ打ちそふ波の音かな  肥後

新古今集、羇旅、天王寺に参りけるに、難波の浦にとまりて。
邦雄曰く、肥後集の「舟にて目を覚まして聞けば、湊の波にきほひて蘆の風に靡く音を聞きて」なる詞書を併せて参照するとひとしおの味わいがある。題詠でも、即席の空想詠でも、大きにこの程度の歌を創作するのが王朝人の最低限度の才だが、風俗として面白みの加わることは確かである。京極関白家肥後、勅撰入集50首近く、金葉集初出の才媛であった、と。


 入相は檜原の奥に響きそめて霧にこもれる山ぞ暮れゆく  足利尊氏

風雅集、秋下、秋山といふことを。
邦雄曰く、足利幕府初代将軍尊氏は、南北朝の、千軍万馬の武将であると同時に、文学を好み、美術を愛した。新千載集の成立にも与って力があって22首入選、風雅集には17首、その他計88首も勅撰集に採られている。殷々と底ごもる晩鐘の表現は、音色を交えた水墨画の印象あり、同時代歌人の中において少しも遜色はない。14世紀半ばの没、と。


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