君しあれば並木の蔭も頼まねど‥‥

0511270172

INFORMATION : 四方館Dance Café <越年企画>

−四方のたより− 行き交う人々−懐かしさのふるさと

その名は「三ちゃんや」だった。
幼い頃よく通った近所の駄菓子屋の屋号である。
先日急死した、幼馴染みでもあった中原喜郎さんにまつわることなどをあれこれと想い出したりしていると、ふと記憶の底に眠っていたその名が、店先の様子や軒先に書かれた屋号「三ちゃんや」の文字とともに、まざまざと蘇ってきたのだった。
「そうか、「三ちゃんや」があったんだ。一歳違いで、同じ町内で、小学校も同じだったとはいえ、一緒に遊んだというような記憶はどう手繰ってもない。それなのになぜだか、彼と私の間になんともいえぬ懐かしい感触が横たわっているのは、駄菓子屋「三ちゃんや」の所為だったんだ。」
幽霊の正体も、判ってしまえばまことに他愛ないもの。
幼馴染みというただそれだけの、一緒に遊んだ記憶もなく、なんら具体的な像を結ばない、なのに奇妙なほど懐かしさを覚える、その不思議な感覚の根拠には、当時毎日のように通い慣れた駄菓子屋「三ちゃんや」の存在があったのだ。

昔、租界道路と呼ばれた私の家の前の25メートルもある広い道路を左へ歩いて、すぐの路地を右に曲がってどんどん歩いてゆくと、やがて四ツ辻に出て、その左向う角には銭湯があったのだが、その路地を左へ折れて少し歩くと広い電車道に出る。
明治36(1903)年に開通したという大阪市に初めて登場した市電は築港線と呼ばれ、花園橋(現・九条新道)から築港桟橋(現・大阪港/天保山)を走ったのだが、当時の大人たちも子どもも、その道路をたんに電車道と呼んでいたのだ。
その電車道に出るすぐ手前の左側に、間口二間半ばかりか、軒先の壁に「三ちゃんや」とペンキで大書した駄菓子屋があったのだった。おそらく我が家からは250メートルか300メートルまでの距離だったろうが、小学校一、二年生のまだ幼い子どもにとっては、かろうじて独りで自由に行動しうるギリギリの範囲であったように思う。
いつ覚えて味をしめたか、学校から帰るとすぐ母親にせがんでせしめた5円玉か10円玉一枚を握りしめて「三ちゃんや」まで駆けてゆくのが、まるで日課のように続いていたものだった。
その通い慣れた駄菓子屋の隣が中原さんの家だった。たしか軒先には「中原商店」と書いてあった。当時、炭や練炭など燃料の小商いをされていたのではなかったか。
なにしろ毎日のように「三ちゃんや」へ通うのだから、一歳違いの彼の姿をよく見かけ、でくわすこととなる。お互い人見知りの強かったせいか、言葉を交わすこともなく、遊ぶこともないのだけれど、しょっちゅう顔を会わせていたわけで、でくわすたびに或いは視線を合わせるたびに、よくは知らぬ相手への興味と関心の矢が放たれていたのだ。

子どもの生きる領分、縄張りといってもいいが、それはずいぶんと狭いものだ。よく見知ってはいてもなかなか垣根を越えて遊び仲間となることは、まだ幼い頃には起こりにくい。興味や関心とともに互いに牽制するような力も働いて、自分の世界をひろげ得ないままにおわることは多い。互いの世界は接しているのだが、なかなか交わることにはならない。そうなるにはあたらしい特別な出来事、事件が起こらなければならない。
そんな事件も起こることなく、あの頃の彼と私は、お互いの子どもとしての世界を「三ちゃんや」を媒介にしてずっと接していたということになろうか。けっして交わらぬままに。
そして、あたらしい特別な出来事、その事件は、40数年を経巡って起こったのだった。
それが「辻正宏の死」という、彼にとっても私にとっても、抜き差しならぬ出来事、事件だったのだ。
’97年、11月も末近くのことだった。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−32>
 吹くからに身にぞ沁みける君はさはわれをや秋の木枯しの風  八条院高倉

新勅撰集、恋四、題知らず。邦雄曰く、秋に「飽き」の見飽いたような懸詞ながら、四季歌のさやかな調べのなかにちらりと紅涙のにじむのを見るような歌の姿が、退屈な新勅撰集恋歌群の中では十分味わうに値しよう。一首前の宮内卿「とへかなしなしぐるる袖の色に出でて人の心の秋になる身を」があり、これもおもしろいが、二首殺し合う感あり並べるとこころころしあう感あり。第四句の危うい息遣いあり、と。

 君しあれば並木の蔭も頼まねどいたくな吹きそ木枯しの風  小大君

小大君集、十月に女院の御八講ありて、菊合わさは来ければ。
邦雄曰く、たとえば薔薇、花麒麟等、有棘の花を見るように、小大君の歌には相当な諷刺がこめられており、それでいてきららかである。この歌も初句「君しあれど」とでもあれば通りの良い擬・恋歌になるところを、「ば」で痛烈な転合となった。冬の歌に「めづらしと言ふべけれども初雪の昔ふりにし今日ぞ悲しき」あり。この人、生没年・出自は不詳、と。


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