いかなればかざしの花は春ながら‥‥

祇王・仏 (京の絵本)

祇王・仏 (京の絵本)


0511290571

−表象の森− 祇王

Valentine Dayはすでに縁なき衆生と措くとして、それとは別に今日は祇王忌でもあるそうな。
京都嵯峨野のやや奥まった処、竹林の小径が途切れたあたり、ひっそりと佇むように小さな萱葺の門がある。
平家物語巻一に登場する祇王の段由縁の祇王寺である。
祇王とは権勢を誇った清盛の寵愛を受けた白拍子の名だが、清盛は祇王の歌や舞を愛で、そのお蔭で妹の祇女や母刀自とともに一時の栄華をみたが、そこは権勢者の気紛れ、加賀国から都へと上ってきた白拍子の仏御前に取って代わられる。
平家物語では清盛を前にして、「仏もむかしは凡夫なり 我らも終には仏なり いづれも仏生具せる身を へだつるのみこそかなしけれ」と歌い残したとされる祇王は、妹や母とともに奥嵯峨の往生院へと入り出家する。
やがて明日は我が身かと運命の儚さに感じ入った仏御前までが祇王を慕って尋ねきては尼となり、4人共々に念仏に明け暮れ往生した、という話だ。
この往生院と伝承される跡地に、明治になって再建されたのが現在の祇王寺だが、その庵には鎌倉時代末期の作とされる、祇王・祇女・母刀自・仏御前の4人と清盛の5体の木彫像が鎮座している。
像はそれぞれ当時流行のリアルなものだが、女人たちの煩悩を洗い流したような爽やかな表情とはうってかわって、清盛の面影は些か醜く歪んだ表情をしているところがおもしろい。
往生院は法然の弟子・念仏房良鎮の創立と伝承されているが、当時の悲しい女たちの駆込み寺のようなものであったのかもしれない。
抑も、平家物語自体、法然らが唱えた専修念仏の流布宣伝の一面があったとの説もある。
祇王の物語のような女人往生譚が巻一に挿入されているのもその証左といえそうではある。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−52>
 風冴えて浮寝の床や凍るらむあぢ群さわぐ志賀の辛崎  源経信

大納言経信卿集、冬、氷満池上。
邦雄曰く、巴鴨、あるいは味鴨の群れは、水の上を棲家とするゆえに、結氷すればねぐらを失う。初句の北風から第四句の群鳥騒乱まで、折り目正しく論理的に湖畔の冬景色を描きあげ、歌い進めてゆく。飛躍も省略もそれとは知らせぬ懇ろな詠法。「水鳥のつららの枕隙もなしむべ冴えけらし十符の菅菰」は同題の一首だが、やや重く屈折に富んだ技法が面白い、と。


 いかなればかざしの花は春ながら小忌の衣に霜の置くらむ  藤原道長

新勅撰集、神祇、賀茂の臨時の祭をよみ侍りける。
邦雄曰く、賀茂の臨時祭は霜月下酉の日、真冬の行事であった。祭りの髪には造花を飾り、小忌(オミ)袋にも山藍で花・蝶・鳥などを摺り出す。装束はあたかも春たけなわの趣き、だが気象は空に風花が舞い、地には霜柱が立つ頃、衣の袖も白い花を加えるだろう。「いかなれば」の殊更の問いかけがおおらかでめでたい。新勅撰・神祇には、同題の歌今一首、貫之の作を採る、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。