笛竹のその夜は神も思ひ出づや‥‥

覇権か、生存か―アメリカの世界戦略と人類の未来 (集英社新書)

覇権か、生存か―アメリカの世界戦略と人類の未来 (集英社新書)

−世間虚仮− 「覇権か、生存か」

些か旧聞に属するが、N.チョムスキーの「覇権か、生存か−アメリカの世界戦略と人類の未来」は、昨年の9月21日に、反米強硬派として知られるベネズエラチャベス大統領が行った国連総会一般演説で激賞推奨され、その所為で米国アマゾン・ドットコムでは販売ランキング2万6000位から一気にトップにまで躍進する、という時ならぬセンセーションを惹き起こした。
チャベス大統領の当該演説の件りは以下の如くである。(引用−るいねっと「チャベス大統領の国連演説」より)
「第一に、敬意を表して、N.チョムスキーによるこの本を強くお勧めします。チョムスキーは、米国と世界で高名な知識人のひとりです。彼の最近の本の一 つは「覇権か、生存か−アメリカの世界戦略と人類の未来」です。20世紀の世界で起きたことや、現在起きていること、そしてこの惑星に対する最大の脅威 −すなわち北米帝国主義の覇権的な野心が、人類の生存を危機にさらしていること―を理解するのに最適な本です。我々はこの脅威について警告を発し続け、この脅威を止めるよう米国人彼ら自身や世界に呼びかけて行きます。」
「この本をまず読むべき人々は米国の兄弟姉妹たちである、と私は思います。なぜなら彼らにとっての脅威は彼ら自身の家にあるからです。悪魔〔el diablo〕は本国にいます。悪魔、悪魔彼自身はこの家にいます。
そして悪魔は昨日ここにやって来ました。
皆さん、昨日この演壇から、私が悪魔と呼んだ紳士である米国大統領は、ここに上り、まるで彼が世界を所有しているかのように語りました。全くもって。世界の所有者として。」
「ここでチョムスキーが詳しく述べているように、米帝国は自らの覇権の体制を強固にするために、出来得ることは全て行っています。我々は彼らがそうすることを許すことは出来ません。我々は世界独裁が強固になることを許すことは出来ません。
世界の保護者の声明−それは冷笑的であり、偽善的であり、全てを支配するという彼らの欲求からくる帝国の偽善で溢れています。
彼らは彼らが民主主義のモデルを課したいと言います。だがそれは彼らの民主主義モデルです。それはエリートの偽りの民主主義であり、私の意見では、兵器や爆弾や武器を発射することによって強いられるという、とても独創的な民主主義です。
何とも奇妙な民主主義でしょうか。アリストテレスや民主主義の根本にいる者たちは、それを認知できないかもしれません。
どのような民主主義を、海兵隊や爆弾で強いるというのでしょうか?」というように続けられる。
日本語版の本書は集英社の新書版ながら350頁に及ぼうという長大さで、アメリカの覇権戦略の現在と未来を、その歴史的経緯をたどりながら詳細に分析し尽くしている。
覇権主義アメリカは従来より「平壌からバグダッドまでつづき不穏な核拡散地帯−イラン、イラク北朝鮮インド亜大陸」を非常に危惧し、国際的な緊張や脅威を拡大してきたが、現実にはそれより遙かに恐ろしい核大国がその近辺に存在していることに、世界は眼を閉ざしたまま論じられることは殆どない。それは数百発にのぼる大量の核兵器武装しているアメリカの権力傘下の国イスラエルの存在であり、この国はすでに世界第二位の核保有国であるという憂慮すべき事態にある。
グローバル化は持てる者と持たざる者との格差を拡大する。アメリカによる宇宙軍事化の全面的な支配の必要性は、世界経済のグローバル化による結果としてより増大していく。経済の停滞と政治の不安定化と文化的疎外が深刻化していく持たざる者の間には不安と暴力が生まれ、その牙の多くがアメリカの覇権主義に向けられることになる。そのために彼の国では攻撃的軍事能力の宇宙への拡大がさらに正当化され増幅していく、という負の循環の呪縛から世界はいかにして逃れうるのか。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−54>
 水鳥の下安からぬ我がなかにいつか玉藻の床を重ねむ  頓阿

草庵集、恋下、冬恋。
邦雄曰く、玉藻靡かう水の上を夜の床とする水鳥も、その心はいつも安らがぬように、逢瀬もままならぬ苦しい恋も、いつの日かは「われらが床は緑なり」とも言うべき、満ち足りた仲になろうとの、遙けく悲しい願望を歌う。「寄水鳥恋」では「鳰鳥の通ひし道も絶えにけり人の浮巣をなにたのみけむ」と巧みに寓意を試みる。二条家歌風の一典型である、と。


 笛竹のその夜は神も思ひ出づや庭火の影にふけし夜の空  永福門院

新続古今集、冬、伏見院に三十首の歌奉らせ給ひける時。
邦雄曰く、神楽の開始は夕刻、照らすための火を焚き、歌うのも「庭燎」で、「深山には霧降るらし」に始まる。この歌の面白さは「神も思ひ出づや」なる意表を衝いた発想であろう。下句の火と空の逆の照応も、考えた構成であり、神韻縹渺の感が生まれる。二十一代集の冬に神楽の歌はあまた見られるが、異色を誇りうる秀歌だ。作者の歌風の珍しい一面か、と。


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