この雪の消残る時にいざ行かな‥‥

アカシヤの大連 (講談社文芸文庫)

アカシヤの大連 (講談社文芸文庫)

−表象の森− 清岡卓行の大連

所収作品は、「朝の悲しみ」(1969-S44)、「アカシアの大連」(1970-S45芥川賞)と、「大連小景集」(1983-S58)として出版された4つの短編「初冬の大連」、「中山広場」、「サハロフ幻想」、「大連の海辺で」を含む。

大正11(1922)年に大連で生まれ、昭和16(1941)年の一高入学までの幼少期を彼の地で暮らし、さらには東大仏文へ進むも、東京大空襲の直後、昭和20(1945)年の3月末に、「暗澹たる戦局の中を、原口統三江川卓と日本から満州へ。戦争で死ぬ前にもう一度見よう」と大連への遁走を企て、1ヶ月余の長旅でたどりつき、昭和23(1948)年の夏、引揚船で舞鶴へ降り立つまでの3年余を大連で過ごした、という清岡卓行

彼は、終戦詔勅をなお健在であった父母とともに生まれ育った大連の家で聞く。
「八月十五日の夜、彼は自分の家の小さな屋上庭園、幼い頃、夕焼けの空に女の顔が浮かんでいるのを眺めたあの場所で、かつての日本の植民地の綺麗な星空を、今さらのように珍しく眺めながら、なぜか、しきりに天文学的な考えに耽った。その巨視的な思いの中に、罌粟粒ほどの小さな地球を編入することが、まことに寂しくも爽やかであった。」
また、「彼は、全く意外にも、自分もやはり<戦争の子>ではなかったのかと感じた。――おお、戦争を嫌いぬき、戦争からできるかぎり逃げようとしていた、<戦争の子>。」−いずれも「アカシアの大連」より−と書く。

「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」
あまりに人口に膾炙した、安西冬衛の「春」と題された有名な一行詩。
彼が先達の詩人として敬した安西冬衛もまた大連の人であった。安西は1919(T8)年から15年間、大連に在住した。1924(T13)年、同じく大連に居た北川冬彦や滝口武士らと詩誌「亜」を創刊、一行詩や数行詩という時代の尖端を行く短詩運動を展開、4年余の間に「亜」の発行は通巻35号を数えている。
彼は、この先達者たちの詩を、その短詩運動にもっとも影響を受け、偏愛したという。「亜」に拠った詩人たちの詩業は、彼の言によれば「口語自由詩の一つの極限的な凝縮であり」、「形式における求心性と、内容における遠心性。それらの緊迫した対応のうちに湛えられた新しさは、時間の経過によって錆びつかないアマルガムの状態」になっており、「凝縮された国際性」を体現しえたものであった。

大連の港から出航する引揚船でどんどん内地へ引き揚げてゆく日本人たちをどれほど見送ったことか。
1947(S22)年6月、すでに大連には僅かな日本人しか残っていなかったが、残留日本人の子どもらが通う大連日僑学園で英語や数学を教えていた彼は、クリスチャンで「いくらか円顔で、甘い感じ」のする日本人娘と知り合い、結婚する。
そして翌年の夏、身重の妻とともに引揚船で大連から舞鶴へ。東京世田谷の長姉宅に寄宿した彼は、4年ぶりに東大へ復学するも、11月には男児誕生と、生活費を稼ぐに追われ授業にはなかなか出られぬ暮しがつづいた。

詩人として、戦後二十数年もずっと、詩と詩論しか書いてこなかった彼が、1969(S44)年、すでに47歳にもなって、なぜ小説を書くようになったか、あるいは書かねばならなかったかについては、処女作「朝の悲しみ」を読めばおよそあきらかとなるが、その前年の妻の病死という衝撃が契機として大きい。
自殺を志向するがごとき憂鬱の哲学と純潔への夢を中断して「妻の若く美しい魅力」によって生へと連れ戻された自分であってみれば、ここであらためて生の根拠を問い、「生きる論理を構築し」直さなければならない。「妻がいなくなったら、このいやらしい世界と妥協する理由は失われたはずであり、彼は二十数年も遡って、自殺の中断の箇所まで、とにかく一応は舞い戻らなくてはならなくなったのである。」−「朝の悲しみ」より−
だが、短編「朝の悲しみ」における主調音は、むしろ妻への喪失の想いであり、「測り知れない深さの悲しみに支配され」、目覚めの虚脱感に耐えながら、生と死が親密に戯れる「愛の眠りの園」に身を沈めようとする−彼の内面が淡々と語られてゆく。
彼は、「人間の愛が夢みさせる死への憧れ」と、「動物的な本能が歌う生の意志」とが絡み合うところにこそ、「人間の全体性と呼べるもの」が浮かびあがってくると自らに言い聞かせつつ、残酷な現実の中に芽生えた淡い希望をもって、この短編を締めくくっている。

翌年(1970)3月に発表された「アカシアの大連」において、彼は小説への転回と同時に自らの再生を果たしたようにみえる。
それは深い喪失の悲しみから一歩踏み出して、自らの生の根拠を問うために、遠く失われた故郷である大連を記憶の回路を通して蘇らせようとした試みであり、「間欠泉のように、生き生きと浮かびあがってくる」ようになった大連における記憶の切れ切れを、けっして完成された物語としてではなく、語りの生成過程そのものを追跡するようなかたちで織り込んでいっている。
彼のこの転回と再生が、敗戦後の混乱期から高度経済成長期へと移行し、70年前後といういわばひとつの頂点を劃した頃であったという社会状況の背景もまた、これを成立せしめうる時機として深層において働いたのではなかったかという感が、どうしても私にはついて離れないのだが。

彼自身、「4つの楽章で構成された一つの音楽作品であってほしい」と構想された「大連小景集」は、転に配される「サハロフ幻想」が、抑制された静かな語り口で描かれる情景の一節ごとに挿入されるたった4文字の「サハロフ」という名辞が、快いリズムを生み出すとともに内的な昂揚感を強く感じさせてくれる。
かつて日本にとって租借地大連は近代化の実験の場であったが、とりわけこの作品には、彼のいう「おたがいに異なる主旋律を持つ4つの短編の、旅行の時間の流れに沿った組合せによって」、その大連という街の、国家が託した血なまぐさい幻想も含めて、全体像が暗示的にうかびあがってくるような一面がある。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−56>
 この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む  大伴家持

万葉集、巻十九、雪の日に作る歌一首。
邦雄曰く、雪中にあれば、鮮黄に映える、野生の橘の実、「いざ行かな」の、みずから興を催し、他を誘う声の弾みが朗らかに愉しい。この歌は天平勝宝2(750)年12月の作と記されている。山橘は「消残りの雪に合へ照るあしひきの山橘をつとに摘み来な」も同様、藪柑子の別称との解もあるようだが、橘でなければ「いざ行かな」との照応は不自然だ、と。


 契りあれや知らぬ深山のふしくぬぎ友となりぬる閨の埋み火  肖柏

春夢草、中、冬、閨炉火
邦雄曰く、炉に燃やして共に夜を過ごす薪の類も、思えば長い冬の長い夜の友。深山から出てはるばると、との感慨を初句「契りあれや」にこめた。単なる素朴な述懐ではない。温みのある、一脈の雄々しさも匂う冬歌ではある。「埋み火をたよりとすさぶ空薫きも下待つ閨と見えぬべきかな」は、さらにひと捻りした妖艶の情趣をも味わうべき、同題のいま一首である、と。


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