花よただまだうす曇る空の色に‥‥

宮澤賢治に聞く (文春文庫)

宮澤賢治に聞く (文春文庫)


−表象の森− 宮沢賢治とバリ島

井上ひさし「宮沢賢治に聞く」を読んで意表を衝かれたのは、賢治の「羅須地人協会」誕生の背景には、当時の世界的なバリ島ブームが刺激なりヒントなりを与えたのではないか、という指摘だった。
この新説はどうやら井上ひさしの独創らしい。


オランダがスマラプラ王朝を滅ぼしてバリ島全土を植民地支配するようになったのは1908(明治41)年だが、各地の旧王族を残しつつ間接統治を採ったオランダ政府の政策が結果的に効を奏し、従来各部族が棲み分けていた島社会の混乱を招くことなく、習俗や伝承文化の保護継承に繋がりえたとされる。
おりしも、ヨーロッパ中を疲弊させた第一次世界大戦がやっと終わった1918(大正7)年、O.シュペングラーの「西洋の没落」が発刊され、一躍ベストセラーとなっている。
「西洋の没落」というこのフレーズは、センセーショナルなほどに彼ら西洋の現在と近未来を映す常套語となり、大戦の疲弊と相俟って深刻な終末観に襲われるが、その反動は一部に異郷趣味を増幅させもする。
西洋におけるオリエンタリズムの潮流は、当時のバリ島を「ポリネシア文化とアジア文化が合流する地上の楽園」と憧憬のまなざしで見、多くの欧米人たちが訪れるようになる。
とりわけ島を訪れ、滞在する芸術家たち、たとえばドイツ人画家ヴァルター・シュビースらが原住民たちとの協同作業のなかで舞踊劇として再生させた「ケチャ・ダンス」のように、絵画や彫刻、ガムランやバロン劇などが、彼らのもたらす西欧的技法や感性と交錯しながら、バリ特有の伝承芸術として再生され定着していく。
いわば西洋におけるバリ島の発見、バリ原住民たちの伝承文化が西洋の芸術様式と出会い、再生させられていくピークが1920年代から30年代であった。


井上ひさしによれば、賢治の蔵書の中に、当時のバリ島が紹介された一書があるという。
賢治が花巻農学校の教員を辞してのち、実家の離れに住みながら羅須地人協会を発足させたのは1926(大正15)年のことである。
農民芸術を説き、近在の百姓たちとともに劇団をつくったり、オーケストラをやろうとした賢治の脳裏には、この西洋によるバリ島の発見があり、宗教も芸術も渾然と一体化した島民たちの生活習俗が、ひとつの理想的モデルとして鮮やかに刻印されていたのかもしれない。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−58>
 稻つけばかかる吾が手を今宵もか殿の若子が取りて嘆かむ  作者未詳

万葉集、巻十四、相聞。
邦雄曰く、土の匂い紛々と、素朴、可憐、純情の典型。平安朝の技巧を盡した題詠の恋歌を見飽きた眼には、清々しく尊く、こよない救済のようにも映る。新穀の精製される初冬の歌。これに続いて「誰れぞこの屋の戸押そぶる新嘗にわが背を遣りて斎ふこの戸を」が見える。「稻つけば」の第三句「今宵もか」には、巧まずして相聞の精粋が溢れている、と。


 花よただまだうす曇る空の色に梢かをれる雪の朝あけ  藤原為子

風雅集、冬、雪の歌に。
邦雄曰く、梢の花を雪と見紛う錯視歌も夥しいが、「花よただ」と絶句調の初句で声を呑み、木が潤み曇るさまを「梢かをれる」と表現し、空もまた曇りの模糊とした景色、まことに春隣であって、雪すら華やぐ。言葉を盡し心を盡し、玉葉・風雅時代女流の筆頭の一人の力量、この一首だけからも十分に察知できよう。風雅・冬の中でも屈指の名作と言いたい、と。


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