降る雪に霞みあひてや到るらむ‥‥

Dsc_00741

−世間虚仮− 夢のあと


夢を見ていた
それが途切れるようにして、夜中に眼が覚めた
親父の夢だった
そういえば、この10日には
母親の七回忌と、父親の三十三回忌の法要が予定されている
夢のなかの親父は
‥‥彼はたしか満63歳で死んだ筈だが
わたしの知るかぎりにおける、若い親父だった
といっても、33歳のときの子としては
40歳前後の親父の姿しか想い描きようもないのだけれど
記憶にのこる親父の姿に
たのしかったとか、おもしろかったとか
そんな懐かしくも微笑ましいような絵面など、なにもない
なにしろ、子どもらと一緒になって遊ぶような親父では
けっしてなかったのだから


夢から覚めたあと
その夢を反芻しつつ
さらには、その近傍の記憶をいくつか手繰りよせながら
ある一事を考えていた
なぜ、いまさら、そんなことを考えてみなければならないのか
まったく理由はわからないのだが
まるで夢のつづきのように
あれこれ想い起こしては、そのことを考えてみた
―― それで、腑に落ちた
そのこととは
子どものわれわれには、まったくあずかり知らぬことで
親父が、ひとり、自分でしただけのことだが
ずっと後になって、なぜそんなことをしたのか
また、することができたのか
そこいらが、子どものわれわれには
いささか不条理ともいえ、無謀ともいえそうな
われわれの理解をこえたものだった
―― それが、夢から覚めたあと、腑に落ちた


そういえば、私も
7月がくれば、63歳になるのだった


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−59>
 時雨さへ阿逹の原となりにけり檀の紅葉もろく散る頃  堯孝

慕風愚吟集、応永二十八年十一月、玉津島社毎月法楽の百首に、冬、阿逹原。
檀(まゆみ)−栴檀、白檀、黒檀など、落葉する喬木。
邦雄曰く、古歌の紅葉はおしなべて楓紅葉、あるいは漠然と雑木の紅葉を指すようだが、堯孝の歌は、とくに冬の美しさで名のある檀を選んでいるだけでも、記し止めて然るべきだ。結句の「もろく散る頃」も的確で鋭い。冬「浮島原」題の「ひと群の見えしもいづこ波の上に雪ぞさながら浮島の原」も地味ながら印象に残る。阿逹は安達、奥州の著名な歌枕、と。


 降る雪に霞みあひてや到るらむ年行き違ふ夜半の大空  恵慶

恵慶法師集、つごもりの夜、年の行き交ふ心、人々よむに。
邦雄曰く、古今・夏巻軸に「夏と秋と行き交ふ空の通ひ路は」があり、貫之集にも「花鳥もみな行き交ひて」が見えるので、発想は必ずしも新しくはないが、すれちがいも季節ではなく、逝く年来る年となるとスケールも大きく、堂々たる調べが生まれる。その不可視の「時間」に、現実の雪がまつわって霞むとしたところに、この歌独自の愉しさを感じる、と。


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