ひととせをながめつくせる朝戸出に‥‥

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−表象の森− 流し雛

一昨日(3日)の夕刻、加太淡島神社の流し雛の模様がTVのニュースで伝えられていた。
全国各地の家庭から用済みとなって社へ奉納された雛たちがうずたかく積まれた白木の小舟が3艘、細いロープにつながれて瀬戸内の海へとゆらりゆらり漂い流れていく。

 「知らざりし大海の原に流れ来てひとかたにやはものは悲しき」
源氏物語「須磨」の巻、弥生のはじめの巳の日に、須磨の海辺にて禊ぎをせんとて、陰陽師にお祓いをさせた際、「舟にことことしき人形乗せて流す」のを見て源氏が詠んだ歌だが、流されゆく人形に流謫のわが身を重ねている。

「ひとがた−人形」を水に流して災厄を祓おうとするこの風習を、流し雛の源流とする説もあれば、これを否定する説もある。
また同じ頃、宮中にあって貴族の子女たちに親しまれた「ひいな遊び」が雛祭りの原型ともされるが、手許の「こよみ読み解き辞典」(柏書房刊)によれば、源氏物語「須磨」の故事などを流し雛の源流と捉え、この撫物の人形がしだいに精巧なものになり、やがて雛人形となり、人々に愛玩・観賞されるようになり、雛祭りとして定着していったとある。
この説を採るならば、「ひいな遊び」が雛祭りの原型というより、むしろ厄払いの流し雛の風習に傍筋として影響したくらいにみるべきかと思われるが、実際のところは諸説あって判然としない。
俳諧における季語の来歴に照らせば、「雛祭り」がむしろ先行していて、「流し雛」のほうはかなり遅れてみえるというから、これを傍証とすれば源氏物語などの故事源流説は否定されてしまうことになるが、果たしてそうだろうか。

いずれにせよその判断は好事家たちの読み解きに委ねおくとして、些か気にかかるのは、流し雛の風習が昭和の末頃から一種の復古ブームともなって、全国各地にひろまっているということだ。
TVで伝えられた淡島神社の流し雛も、今日のような大層な体裁を採るようになったのはずいぶん新しく昭和37(1962)年だそうで、それまでは神社で祈祷を受けたひとがたや人形を個人がそれぞれ海へ流していたという。
平安朝絵巻よろしく古式に則り華やかに厳かに繰りひろげられて観光スポットになっている下鴨神社の場合などは、平成元(1989)年に復古されたものだというから、ブーム便乗型もはなはだしい典型といえそうだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<冬−60>
 薮がくれ雉子のありかうかがふとあやなく冬の野にやたはれむ  曾禰好忠

好忠集、毎月集、冬、十一月はじめ。
邦雄曰く、これは宮人の狩りではない。俗人が近所の草藪竹薮にひそんで、雉子(きぎす)−キジを狙っている図。本人は至極真剣なのだが、よそめには、むやみに冬枯れの原で戯れて時を過ごしているように見えるだろうと、ややはにかんで、なかば弁明気味に歌っているのが殊の外面白い。好忠の巧まぬ諧謔は、通俗すれすれのところで思わぬ清新な味を生む。結句は反語表現、と。


 ひととせをながめつくせる朝戸出に薄雪こほる寂しさの果て  藤原定家

邦雄曰く、定家31歳、天満空を行く技巧の冴えを見せる六百番歌合百首の中でも、「薄雪こほる寂しさの果て」は比類のない秀作だが、新古今以後いずれの勅撰集からも漏れている。盲千人、判者の俊成さえ「雪も深くや侍らむとこそ覚え侍るを」などと見当違いなことを言い、珠玉の結句は方人達の非難の的となった。名作も評価されるとは限らない、と。


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