鶯はいたくな鳴きそ移り香に‥‥

Dsc_00191

−世間虚仮− 民権ばあさんとはちきん娘

昨日、フランスの女性参政権について触れたが、これについて調べた際、明治の初期、時の政府に抗議の末、参政権を実現し、後に「民権ばあさん」と尊称された女性が居たことを知らされた。
楠瀬喜多、土佐高知の女性だ。
喜多は1878(明治11)年の区会議員選挙で、「戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないというのはおかしい。 本来義務と権利は両立するのがものの道理、選挙権がないなら納税しない。」と県に抗議。
しかし、時の県令はこれを受け容れず、喜多は内務省に訴え出た。これは女性参政権運動における初めての実力行使といえるもので、全国紙大坂日報や東京日日新聞にも報道され注目を集めたらしい。
そして、1880(明治13)年、3ケ月にわたる上町町会の運動の末に県令が折れ、戸主に限定されてはいたが、日本で初めて女性参政権が認められるにいたった。その後、隣の小高坂村でも同様の事が実現したという。
この当時、世界で女性参政権を認められていた地域はアメリカのワイオミング準州や英領サウスオーストラリアやピトケアン諸島といったごく一部であったというから、この事件は女性参政権を実現したものとしては世界で数例目となる先駆的なものだ。
しかし4年後の1884(明治14年)、明治政府は「区町村会法」を改訂、規則制定権を区町村会から取り上げたため、町村会議員選挙から女性は排除されてしまう。時の政府は、地方に咲いた先駆的な女性の権利運動の芽をはやばやと摘み取った訳だ。
喜多は天保7(1836)年、米穀商の娘として生まれ、21歳で土佐藩剣道師範楠瀬実に嫁したという。夫は喜多38歳の時に死に、その後彼女が戸主となったらしい。当時の民権運動、立志社が開く公開政談演説会を熱心に傍聴するなど、自由民権思想を理解していったという。
老後の喜多の写真があるサイトで見られるが、凛として聡明そうな風情が横溢しているものだ。

偶々だが、先ほどの選挙で60歳の候補者となった谷口豊子もまた高知の出身、嘗ては土佐のはちきん娘であった。女ばかりの長女に生まれながら、高校を卆えて勤めていた県関連の交通会社を辞め、22歳の時、立志を抱いてか大阪へと出奔した。当時、某大学法科の通信教育を受けていたともいう。
このところ三週間あまりを文字通り身近に接してきて、還暦にしてなお問題意識の錬磨と上昇志向の弛まぬところ、いまだ磨かれざる原石としての良さを内包しているとも見えた。
坂本竜馬には姉・乙女の薫陶が大きかったとされるが、彼女もまた、乙女や喜多の血脈を享けているのかもしれない。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−66>
 鶯はいたくな鳴きそ移り香にめでてわが摘む花ならなくに  凡河内躬恆

躬恆集、上、内の御屏風の歌、花摘。
邦雄曰く、梅の花の移り香芳しい鶯、花ならぬ鳥、家づとに手折って帰る由もない。な鳴きそ鳴きそと歌ふ。花摘は年中行事の一つ。野山へ出て草木の花を愛で、籠に摘み取って楽しんだ。この歌は年中行事を描いた屏風絵の三月に合わせた。躬恆は屏風歌の詠進でも聞こえた名手、延喜の代の屈指の歌人古今集撰者の一人、しばしば貫之と対比して論じられる、と。


 玉藻刈る方やいづくぞ霞立つ浅香の浦の春のあけぼの  冷泉為相

新千載集、春上、文保三年百首奉りける時、春の歌。
浅鹿の浦−摂津国の歌枕、大阪市住吉区浅香町と堺市浅香山町一帯。
邦雄曰く、玉藻・霞・浅鹿の浦に春の曙を重ねて、飽和状態を呈するまでに季節の美を強調する。父は為家、母は阿仏尼、定家の孫としての才質も併せ持ち、冷泉家の祖となった人。「玉藻」は56歳の作。家集、藤谷和歌集は300首余を収める。謡曲の「呉服−くれはとり」にも「住の江やのどけき浪の浅香潟」と唱われた美しい海岸であった。勅撰入集は65首、と。

⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。