橘の匂ふあたりのうたた寝は‥‥

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Information 林田鉄のひとり語り<うしろすがたの−山頭火>

−世間虚仮− 沖縄返還と。

昨日の5月15日、沖縄返還から35年。
1972年の当時としては、沖縄の本土復帰は県民のみならず多くの日本人の悲願であったし、戦後処理の越えねばならぬ大いなるヤマであったろう。
同じ年の9月には、この夏、首相となった田中角栄が訪中、日中国交正常化が成っている。
周恩来とともに共同声明に署名する二人の姿が新聞紙面に躍っていたのが記憶の隅に残る。
これまた戦後処理の大きな課題であったわけだが、この二大事を挟んで、現在まで歴代内閣最長を誇る4選総裁佐藤栄作の引退から、長く後々の政変にまで尾を引いた角福戦争を経て、田中角栄総裁の誕生となる。
2年後の佐藤栄作は、長期政権の置土産たる沖縄返還が根拠となったのだろう、ノーベル平和賞受賞という栄誉を手にし、その半年後の’75年6月、不帰の人となった。
沖縄復帰と日中国交正常化の成った’72年(昭和47年)は、他方、連合赤軍あさま山荘事件が2月、イスラエルのテルアビブ空港での日本赤軍乱射事件が5月、と連続し、戦後左翼による変革運動のマグマが、一部では過激派テロリズムの異形なる擬態へと変容をなし自己倒壊していくという末期的症状を露呈し、総体としては、当時の青年層とりわけ学生たちを捉えた革命的パッションの熾火は出口なしとなって鎮火消滅していく。いわば戦後の変革期たる政治の季節、その終焉の年でもあった。

この「沖縄本土復帰の日」を意識したかどうか、その前日、参議院では「国民投票法」が自・公与党で可決され、安部政権はとうとう改憲手続きをものせしめ、曰く「戦後レジームからの脱却」と抽象的言辞で弄して濛昧にしつつ、戦後60余年、自民党の悲願たる自主憲法制定へと大きな一歩を踏み出した。
同じ日、衆議院特別委員会では「イラク特措法」の2年延長を可決させてもいる。
小泉純一郎もノーテンキなしたたか野郎だったけれど、安部晋三のノーテンキぶりは小泉に輪をかけたもののようだ、とつくづく思わされるが、この当人が岸信介佐藤栄作の正嫡血脈にあるのだから堪らないというものだ。
時代性が大いに異なるといってしまえばそれに尽きるともいえようが、彼ら反動的右翼たる宰相は、抵抗にもまた相応の理あり、との受けとめようがあり、これを抑圧し無視していく政治的決断には、内心忸怩たるものが見え隠れするといった体があったか、と思われたものだが‥‥。
こう逡巡もなくアッケラカンとやられては身も蓋もないだろうに、まこと奴の神経は木偶の坊なのか。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−52>
 一声の夢をも洩らせあづま路の関のあなたの山ほととぎす  太田道灌

慕景集、飛鳥井中納言雅世卿へ消息し奉りて添削の詠草奉るとき。
邦雄曰く、慕景集には、太田道灌その人らしい、いかにも風雅を愛する武人の、雄々しく凛とした佳作が肩を並べ、家集の真偽など問題外に愉しい。この時鳥、命令形の二句切れも潔く、それも初句の「一声の夢」が情を盡している。夙に二条家歌人と交わって歌に親しみ、また文明6(1474)年に、武州江戸歌合せを催している。同18年、54歳で暗殺された、と。


 橘の匂ふあたりのうたた寝は昔も袖の香ぞする  俊成女

新古今集、夏、題知らず。
邦雄曰く、伊勢物語歌の、出色の本歌取りの一例。「匂ふあたりの」は、もはや、橘の花の香も、身に近からぬ情趣を暗示し、「昔の袖の香」が仄かな朧なものとなる。五句、どこにも切れ目がなく、詞はアラベスク状に脈絡する。夏の部に入っているが、かつての愛人の袖の、薫香を歌った恋の歌であることは紛れもない。俊成女の代表作に数えられる、と。

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