根を深みまだあらはれぬ菖蒲草‥‥

0511290531

Information 林田鉄のひとり語り<うしろすがたの−山頭火>

−表象の森− 今月の本

三部作となった大部の前著「磁力と重力の発見」(‘03年刊)に続いて、山本義隆が4年ぶりに世に問うたのが「十六世紀文化革命」二巻本。
山本義隆は、‘68年の東大闘争において、当時若手の素粒子研究者として大学院にあったが、全共闘議長となり、以後アカデミズムの外部へと身を投じ、「ただの人」として予備校講師へと転身した。
本書の帯には「大学アカデミズムや人文主義者を中心としたルネサンス像に抗しも16世紀ヨーロッパの知の地殻変動を綿密に追う」とある。
また、本書の序章末尾において著者は「本書は筆者の前著—磁力と重力の発見—を補完するものである。やはり17世の新しい科学の出現に大きな影響を与えた同時期の魔術思想については、前著にくわしく展開したので今回は禁欲し、その言及を最小限に留める。この点において付け加えておくと、16世紀文化革命は17世紀科学革命にとって必要な条件ではあったが、それで十分だったわけではない。新しい実験的で定量的な自然科学の登場を促したのは、職人たちの実践から生まれた実験と測定にもとづく研究とともに、前著で語ったほとんど「実験魔術」とも言うべき自然魔術の実践が考えられる。しかも後者は17世紀物理学のキー概念ともいうべき遠隔力の概念を準備した。科学史家ヒュー・カーニーの言うように「16世紀をつうじて魔術と技術の伝統は科学にある広がりを加えた」のである。」という。
4年前の暮れ頃だったか、前著三巻本をざっと読み流しただけに終わった私としては、今度はじっくりと腰を据えて併読しなければなるまいが‥‥。

脳科学認知科学を基盤としつつ、「進化」という視点から「意識とはなにか」問題に迫るN.ハンフリーの「赤を見る」。
脳科学や心理学がいくら進歩したといっても、「視覚のクオリア」という用語が示すように、「私たちは何を見ているのか」を記述しようとすれば、たちまち立ち往生してしまう。
本書では「赤を見る」というただひとつの経験にしぼり、「知覚」と「感覚」の関係をさまざまに経巡っては「意識」問題の迷宮に読者を誘い込む。

P.クローデルの集大成的戯曲といわれる「繻子の靴」は、その初版に「4日間のスペイン芝居」と副題されたように稀代の長編戯曲である。
4部作に設定された劇といえば、遠く遡れば古代ギリシアにおける「悲劇三部作にサチュロス劇一部」があろう。
クローデルの比較的直近でいえば、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」四部作が先駆的モデルとなっているのは明らかだろう。
訳者の仏文学者で時に演出もする渡辺守章は、戯曲各部に詳細な訳注を付し、クローデルの詳細な年譜とともに、さらには90頁に及ぶ解題を書いて、文庫にして二巻、各々500頁を超える労作となっている。


−今月の購入本−
山本義隆「十六世紀文化革命−1」みすず書房
N.ハンフリー「赤を見る−感覚の進化と意識の存在理由」紀伊国屋書店
P.クローデル「繻子の靴−上」
P.クローデル「繻子の靴−下」
「ARTISTS JAPAN -14 小磯良平デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -15 円山応挙デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -16 俵屋宗達デアゴスティーニ
「ARTISTS JAPAN -17 与謝蕪村デアゴスティーニ


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−53>
 ほととぎす五月待たずて鳴きにけりはかなく春を過ぎし来ぬれば  大江千里

千里集、詠懐。
邦雄曰く、千里集の巻末に、この四月のほととぎすは、ひっそりと並んでいる。なんの詞書も見えないが、鬱々と春三月を過ごし、期せずして耳にした初音でもあったろうか。下句の初めに「われは」が省かれているが、卒然と読めば、鳥が、はかない日々を送ったようにも感ぜられ、それもまたそれで一入の趣がある。時鳥詠の定石から外れた趣向、と。


 根を深みまだあらはれぬ菖蒲草ひとを恋路にえこそ離れね  源順

源順集、あめつちの歌、四十八首、夏。
邦雄曰く、十世紀後半きっての天才的技巧派である作者が試みた古典言語遊戯の一種、沓冠鎖歌一連の夏、「山川峰谷」の「ね」に位置する一首である。いずれの歌もそのような制約などいささかも感じさせない自由奔放な調べ、「菖蒲草」など、まことに情熱的な恋歌で、文目や泥(ひじ)等の懸詞も周到。ちなみに韻は、最初と最後を同一にする超絶技巧だ、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。