郭公いつの五月のいつの日か‥‥

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Information 林田鉄のひとり語り<うしろすがたの−山頭火>

−世間虚仮 脱配達

一週間ほど前、とうとう「脱配達」宣言をした。
折角、3ヶ月ぶりに復帰してみた朝刊の配達だったが、今月一杯で辞めることにしたのだ。
情けない話だけれど、返り咲いてみたものの、新しく廻された処が、すでに老いゆくこの身には些か過酷に過ぎたのだ。
復帰の挨拶の折、社長の指定区域を聞いた途端、厭な予感が襲ったのだけれど、なにわともあれ指示に従い仕事に就いてはみた。
予感的中、新しい環境は、従前のそれとはあまりに懸け離れていた。
まず、自転車とバイクの違い、これも大きい。そのうえ配達件数も3割ほどは増加しているから時間もかかるのだが、それに輪をかけて大きいのが、階段の昇り降りの頻繁さだ。
昇降機のない5.6階建ての小マンションの類が多く、復帰して一週間を過ぎた頃には、もう右の膝に痛みが走るようになった。
臓器や消化器にはなんの疾病も縁のないこの身だが、そもそも足腰には少々不安のある身である。
以前、激しい腰痛に襲われた際に、MRI検査をしたことがあるが、3.4番の腰椎だったか、これを支える軟骨がずいぶんと摩耗しているらしく、ヘルニア症状を呈していた。
それに、どうやら私の骨格は全体に骨太で、関節付近のくびれも少ないように思われる。どちらかといえば硬い身体なのだろう。よって過重な負担を強い続けると関節が悲鳴をあげはじめることとなる。
体力は坂道を転げ落ちていくように、ただただ下降線をたどっていくしかない老いの身に、こんな無理強いをつづければ、早晩足腰立たぬ身になるのは必定と、ここはさっさとこの業-行から身を退くにしくはないと、撤退することにしたのだ。
復帰1ヶ月で早々と頓挫するとは、お恥ずかしいかぎりのとんだ茶番劇だが、まだまだ不随の身にはなりたくないので致し方ないと割り切るしかない。

それにしても、以前にも触れたことがあるが、戸別配達の販売店制度が生まれ全国的に定着していったのは明治末期頃からだったろうが、その100年ばかりの間、アルバイト配達員や専従員たちの劣悪な労務環境はいかほどの改善を経てきたのだろうかと首を傾げるばかりだ。
とりわけ全国紙といわれる社会の公器たる大新聞資本が、再販制度と特殊指定に胡座をかき、さまざまに矛盾を孕んだ販売店システムを固守しつづけ、末端労働者の環境改善を一顧だにしてこなかったのではないかと思われるのはいかにも腑に落ちない。

「新聞はエリートが書き、ヤクザが売る」という痛烈な皮肉があるそうな。
苛烈な販売競争に「拡張団」なる販売店とは別なるセールス組織が闊歩するのがいつのまにか常態化し、まるで必要悪のごとく存在しつづけていることは誰もが百も承知している現実だし、この「拡張団」なる者たちの猛烈セールスぶりは、行く先々でいろいろと物議をかもし、時に事件化することもあるが、「社会の公器」と「拡張団」の極端な乖離を捉えた二面性に、この痛罵はまことに相応しいと思えるものがある。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−54>
 郭公いつの五月のいつの日か都に聞きしかぎりなりけむ  宗良親王

李花集、夏。
邦雄曰く、それ以来ただ一声も、ほととぎすを聞かぬ。あれは延元2年の5月、花山院内裏で、身の来し方、行く末を語っていた時のことであったと述懐する。思い出の部分は長い詞書となっており、一首は長歌に対する反歌のように添えられる。息を弾ませるかの切迫した畳みかけも「聞きしかぎり」の悲嘆も胸を搏つ。二条為子を母とする天才は明らか、と。


 白玉を包みて遣らば菖蒲草花橘にあへもぬくがね  大伴家持

万葉集、巻十八、京の家に贈らむ為に、真珠を願ふ歌一首。
邦雄曰く、贈られた人が白玉を菖蒲や橘の花に交えて蔓にし、嬉々として髪に飾る様子を思い描く。真珠の光沢さながらに、きらきらと弾むような字句と調べは家持の独擅場。海は能登の国の珠洲天平感宝元年5月14日の作と記録される。長歌1首、短歌4首あり、掲出歌は4首中の冒頭、次の歌は「沖つ島い行き渡りてかづくちふ鰒珠もが包みて遣らむ」と。


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