恋するか何ぞと人や咎むらむ‥‥

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Information 林田鉄のひとり語り<うしろすがたの−山頭火>

−四方のたより− 神戸学院へ下検分

もう一昨日のことになってしまったが、6/9に予定されている神戸学院大学主催の「Green Festival」で、ひさしぶりに演じることとなった「山頭火」上演のために、Staffたちとホール会場の下検分に行った。
Staffたちとは、照明の新田三郎(市岡18期)、大道具の薮井寿一の二君。
今回、私の「山頭火」招聘を主導してくれた伊藤茂教授は市岡の20期だから、まるで市岡絡みである。4月下旬にも、私は一度訪れているのだが、この時はまあ顔見せのご挨拶のようなもの。
所変われば品変わるで、小屋も変われば当方の仕込みようもある程度変わってこざるを得ない。ならば各々Staff諸氏も会場の設備状況を確認しておくにしくはない訳で、めずらしく三人打ち揃っての初夏の陽射しを受けたドライブとなった。
第二神明の大蔵谷Interを下りてすぐの処、有瀬キャンパスに着いたのは約束より30分ほど早かったが、それでも担当事務方の女性が出迎えてくれた。さすが大学組織、配慮は行き届いている。
検分作業に要したのはほぼ一時間。
なにしろ舞台図面といえば、ホール建設時の設計図面一式が出されてきたりして、此方はずいぶん面喰らったのだが、これが先の訪問時のこと。
「これじゃ絵の描きようもない」と「山頭火」上演に関してはいつも舞台監督を兼ねている心算の薮井君が、下見決行に拘ってこの日の訪問となったのだが、言い出しっぺだけあってさすが彼のチェックぶりはかなり緻密なものだった。このあたり最低限のチェックは怠りないが、万事鷹揚とした新田君とは好対照で、これまた奇妙なコンビぶりといえそうだ。
私はといえば、先の訪問ですでに楽屋など案内されているし、チェックするべきこともなく、さらに手持ち無沙汰で、このたびは不参加の音響に関して二、三の確認をするのみ。客席の椅子に腰掛けて、ただ彼らの作業を眺めながら追認するばかりなのだが、おかげで、演奏者の位置や、演技空間の決めなど、おおよそのイメージを抱くことができた。
途中で、授業を終えたばかりの伊藤君が顔を覗かせてくれ、「新田大先生もお出まし願うとは」とジョーク混じりながら、半ば本気の恐縮の体で声をかけてきた。


新田君と伊藤君と私、三者三様に、今は亡き神澤和夫と、縁の深かった者たちの、場所を違えての邂逅である。温かくもあるが奇妙な感懐の混じり合った時間がそこに流れ、思わず苦笑させられるような気分だった。
そういえば、新田君も伊藤君も、結婚の折りはそれぞれ神澤夫妻の仲人だった。
ひとりっ子だった神澤は、彼を敬し親しく周囲に集まる若者たちを、彼一流の一対一対応で個別に惹きつけ、彼を中心にした大家族的な親和世界をつねに求め形成してきた感があった。決して自ら教祖になることを求めた訳ではないだろうが、シンボリックな存在でありたいと望んではいただろう。
この大家族的な親和世界は、表層はいかに家族的と見えようとも、兄弟的、姉妹的関係はどこにも成り立たず、必ずお互いの個々の間には微妙な違和が介在している。神澤を軸に、神澤を介してのみ互に辛うじて繋がり得ている異母兄弟たち?の集団は、どこを切り取っても、神澤を侵しがたき親とした個々の疑似親子関係が多種多様に存在するというべきもので、神澤の無意識が注意深く?兄弟的結合を排除してきたというしかない。
私はといえば、神澤とは逆に、実際に大家族のなかで育ってしまった子どもであった。神澤のつくる親和世界のなかで、私は、自身がニュートラルに振る舞うかぎり、どうしても自然と疑似的兄弟関係を自己流に成してしまうところがあった。もう30数年も昔のことだが、くるみ座の演出家だった故・北村英三氏は、神澤の「タイタス・アンドロニカス」公演の打ち上げの席であったか、私をして「お前さんもかなりの助平だな」とこの習性を喝破した。
親近さと疎遠さとが錯綜した神澤の親和世界とは別に、私は私で新田君とは照明Stuffとして長年付き合ってきた。彼が東京から舞い戻ってきて、大阪で照明の仕事をするようになってまもなくの頃だから、もう37.8年になるだろう。
伊藤君とは、これまた神澤の「トロイの女」の頃から見知ってはいただろう。見知ってはいたが、この頃、彼と言葉を交わしたような記憶はまったくない。
この公演の2週間前という直前、劇的舞踊と名づけられた神澤の舞台づくりに、自身の経験と見通しのなかでどうしても呑み込むことのできない違和を感じて、頑なに自らの意志で降板した私であったから、神澤に私淑し寄り集う周辺からは、すでに私は、踊り手としての飼い慣らされたエース的存在から逸脱して、反抗的分子或いは破壊的分子と目されていたことだろう。
だからかどうかはともかく、彼と私は長い間ずっと近くて遠い存在だった。彼は研究学徒であり評論の徒で、私が実践の徒であり、彼のそのエリアの外に居る者であったという所為が存外大きいのかもしれないが、その遠い距離感をぐっと近づけたのは4年前の「神澤の死」であり、追悼セレモニーのための協働行為であった。
「神澤の死」を前に、なにをもって報ゆるかを想う時、8人ほど居た準備会のメンバーのなかで、その真摯さと深さにおいて、私がもっともSympathyを感じたのは彼だった。
人生とは、世間とはそんなものだ。
「神澤の死」がなければ、こんどの「山頭火」招聘も、未来永劫起こり得なかったろうと思えば、これもまた合縁奇縁の不思議というものか。


神戸学院を辞し車を走らせて一時間余り、次の要件が待つという薮井君を弁天町で降ろして、そのまま博労町まで走って、結構お気に入りの店「うな茂」で、新田君と久しぶりに遅い昼飯を食った。
二人きりでちょいと贅沢に鰻に舌鼓するなど、なかなか機会あるものではない。彼とは理屈めいた小難しい話はまずしない。断片的な言葉のやりとりでほぼ通じ合うから、いたってご機嫌よく食を堪能できる。
こういう時間もなかなか小気味いいものだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−55>
 恋するか何ぞと人や咎むらむ山ほととぎす今朝は待つ身を  源頼政

従三位頼政卿集、夏、侍郭公、公通卿の十首の会の中。
邦雄曰く、恋人の訪れを待つように、そわそわとして落ち着かない黄昏時のみか、未明から起き出て、空のあなたの気配に耳を澄ましている。事情を知らぬ人が見れば、恐らく早合点することだろう。いささか誇張が過ぎるが、諧謔をも込めて、わざと俗調も加減した異色破格のほととぎす詠。他にも「鳴きくだれ富士の高嶺の時鳥」が見え、これまた愉快、と。


 逢ふことのかたばみ草の摘まなくになどわが袖のここら露けき  よみ人知らず

古今和歌六帖、第六帖、草、かたばみ。
邦雄曰く、つとに紋所にも現れる酢漿(かたばみ)草、古歌ではこれ一首以外には見あたらない。「逢ふことの難」さに懸けているのだが、あるいは、あの葉が夜は閉じることをも、伏線として使っているのなら、さらに面白い。逢い難くなる故よしはさらさら無いのに、逢えず泣き濡らすこの袖、悲恋の歎きが、夏草に寄せて実に自然に、初々しく、一首に込められている、と。


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