牡鹿待つ猟夫の火串ほの見えて‥‥

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由

−表象の森− N.ハンフリーの「赤を見る」

著者N.ハンフリーは「盲視(ブラインド・サイト)」の研究で知られる進化心理学の泰斗。邦訳書には「内なる目−意識の進化論」や「喪失と獲得−進化心理学から見た心と体」などがある。
「感覚の進化と意識の存在理由」と副題された本書は、著者が2004年春にハーヴァード大学で行った講演に基づき編集されたもので、タイトルどおり「赤を見る」というただ一つの経験にしぼり、原生生物からヒトにいたる、感覚と心の進化の物語をたどり「意識の迷宮」へと問いを進めていく。
それだけに取っつきやすく入りやすいが、なかなかどうして出口への道筋は一筋縄ではない。

赤する=redding−「感覚」と「知覚」と「身体表象」と「意識」と。
赤い色を見、赤い感覚を持つということ、即ち「赤する=redding」ことには、身体行為、敢えていえば「表現」のような特徴がともなう。すでに前世紀の初め「点・線・面」のカンディンスキーは言っている。「色は魂を直接揺さぶる力だ。色は鍵盤、眼はハンマー、魂はたくさんの弦を張ったピアノである」と。
N.ハンフリーは、感覚から知覚が連続的に生み出されるという従来的な見方を採用せず、感覚と知覚は別々のものとして同時に生じているのだと、自身最初の発見者である「盲視」という症例を基に考える。
盲視状態にある患者は、実際には「見えている」のに「見えている感覚がない」。眼の前に赤いスクリーンがあるのを正確に推測できる−知覚している−にも関わらず、自分がそれを見ているという感覚がないために、それを事実として受け止められない。
感覚は、主体その人がつくり出すものである、と同時に、N.ハンフリーは感覚こそが主体を作り出しているのだと考える。彼はアメーバのような原生生物が自分の内と外を区別する際の、外部刺激に対応した内部の<身悶え>に感覚の起源を見出し、原生動物からヒトにいたる感覚の進化を説明する。
「何が起きたかといえば、感覚的な活動がまるごと<潜在化>されたのだ。感覚的な反応を求める指令信号が、体表に到る前に短絡し、刺激を受けた末端の部位まではるばる届く代わりに、今や、感覚の入力経路に沿って内へ内へと到達距離を縮め、ついにはこのプロセス全体が外の世界から遮断され、脳内の内部ループとなった」と。
感覚を持つことで主体は意識を持つようになる−これは出発点であり同時に到着点でもある。
意識とはなにか?−「意識には時間の<深さ>という特異な次元がある。現在という瞬間、感覚にとっての<今>は<時間的な厚み>をもって経験される。これは感覚の回路がフィードバック効果を持ち,自分自身のモニターとして機能しているためだ.そしてこのような厚みのある自己を感じる意識は,より自分自身を重要視できるように,自分自身を身体と独立の精神として二元的に感じられるように進化したのだ。」


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−65>
 牡鹿待つ猟夫(さつを)の火串ほの見えてよそに明けゆく端山繁山  藤原為氏

風雅集、夏、弘安の百首の歌奉りける時。
邦雄曰く、作者も定家の孫で、母は小倉百人一首にゆかりの宇津宮入道蓮生の女、為家の嫡男。この照射は珍しく、暁方の山々を眺めており、墨絵の鮮やかな濃淡を見るようだ。殊に「ほの見えて・よそに明けゆく」あたりのぼかしは見事であり、結句も簡潔に無造作に、大景を描き切っている。承久の乱の翌年に生まれ、祖父から直々に歌を学んだ一人である、と。


 稲妻の光にかへてしばしまた照る日は曇る夕立の空  宗良親王

李花集、夏、夕立を。
邦雄曰く、宗良親王の母為子は二条為世の女で、同名の、京極為兼の姉とは別人である。親王の歌風はしかし、二条・京極の粋を併せたかに、不羈の詩魂は明らかである。電光が空を照らし、代わって、太陽は光を喪うとの心であるが、第四句の畳みかけに一種沈痛な、皇族武人の気概がほの見える。人生記録に近い部分の多い李花集の中、これは題詠に属する、と。


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