むすぶ手の雫に濁る山の井の‥‥

悪人

悪人

―表象の森− 吉田修一の「悪人」

「ブックレビューガイド」http://www.honn.co.jp/ というWebサイトがある。
年間15万件以上あるという新聞・雑誌などの書評紹介記事をデータベースに、多種多様の氾濫するBooksの現在まさに旬の情報を提供しようというものだ。このサイトによれば、本の紹介件数ランキングでこのところトップに君臨しているのが、昨年の朝日新聞の朝刊小説でこの4月に単行本化された吉田修一の「悪人」なのだ。
私はといえば、毎日新聞の今週の本棚(5/20)にあった以下のような辻原登の書評に動かされて本書を買い求めたのだったが、昨夕から今日にかけて一気呵成に読み継いだ。私にすればめずらしく久しぶりの小説読みに酔った時間といっていい。

辻原曰く「すべての『小説』は『罪と罰』と名付けられうる。今、われわれは胸を張ってそう呼べる最良の小説のひとつを前にしている。
渦巻くように動き、重奏する響き−渦巻きに吸い込まれそうな小説である。渦巻きの中心に殺人がある。
日常(リアル)をそのまま一挙に悲劇(ドラマ)へと昇華せしめる。吉田修一が追い求めてきた技法と主題(内容)の一致という至難の業がここに完璧に実現した。
主題(内容)とは、惹かれあい、憎みあう男と女の姿であり、過去と未来を思いわずらう現在の生活であり、技法とはそれをみつめる視点のことである。視点は主題に応じてさまざまに自在に移動する。鳥瞰からそれぞれの人物の肩の上に止まるかと思うと、するりと人物の心の中に滑り込む。この移動が、また主題をいや増しに豊かにして、多声楽的(ポリフォニック)な響きを奏でる。無駄な文章は一行とてない。あの長大な『罪と罰』にそれがないように。
主人公祐一の不気味さが全篇に際立って、怪物的と映るのは、われわれだけが佳乃を殺した男だと知っているからだが、もし殺人を犯さなければ、彼はただの貧しく無知で無作法な青年にすぎなかった。犯行後、怪物的人間へと激しく変貌してゆく、そのさまを描く筆力はめざましい。それは、作者が終末の哀しさを湛えた視点、つまり神の視点を獲得したからだ。それもこの物語を書くことを通して。技法と内容の完璧な一致といったのはこのことだ。
最後に、犯人の、フランケンシュタイン的美しく切ない恋物語が用意されている。悔悛の果てから絞り出される祐一の偽告白は、センナヤ広場で大地に接吻するラスコーリニコフの行為に匹敵するほどの崇高さだ。」と。

読み終えての感想はといえば、とても小説読みとはいえそうもない私に、この書評に付け加えるべき言葉など思い浮かぶべくもない。彼の書評に促されてみて、決して裏切られはしなかったというだけだ。
「彼女は誰に会いたかったか?」、「彼は誰に会いたかったか?」、「彼女は誰に出会ったか?」、「彼は誰に出会ったか?」、そして最終章に「私が出会った悪人」と、些か哲学的或いは心理学的なアナロジーのように章立てられた俯瞰的な構成のもと、紡ぎだされてゆくその細部はどれも見事なまでに現実感に彩られ、今日謂うところの格差社会の、その歪みに抑圧されざるをえない圧倒的多数派として存在する弱者層の、根源的な悲しみとでもいうべきものが想起され、この国の現在という似姿をよく捉えきっている、と書いてみたところで、辻原評を別な言葉で言い換えて見せているにすぎないだろう。

また、辻原評に先んじて、読売新聞の書評欄「本よみうり堂」(4/9)で川上弘美は、
「殺された女と殺した男とそこに深く係わった男と女と。そしてその周囲の係累、同僚、友人、他人。小説の視点はそれら様々な人々の周囲を、ある時はざっくりと、ある時はなめるように、移動してゆく。殺されたという事実。殺したという事実。その事実の中にはこれほどの時間と感情の積み重なりと事情がつまっているのだということが鮮やかに描かれたこの小説を読みおえたとき、最後にやってきたのは、身震いするような、また息がはやまって体が暖まるような、そしてまた鼻の奥がスンとしみるような、不思議な感じだった。芥川龍之介の『藪の中』読後の気分と、それは似ていた。よく書いたものだなあと、思う。」
と記しているが、この実感に即した評も原作世界によく届きえたものだと思われるが、果たしてこの川上評から促されて本書を求めたかどうか、おそらく私の場合そうまではしなかっただろうというのが正直なところだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>
<夏−69>
 思ひおく種だに茂れこの宿のわが住み捨てむあとの夏草  慈道親王

慈道親王集、夏、夏草。
邦雄曰く、出郷に際し、自らへの餞を夏草に向かってする、かすかに悲痛な趣きをも交えた歌。今、残してゆくわが思いの種を宿して、青々と生い立てと命じ、祈る心は、かりそめのものではない。「住み捨てむ」の激しい響きも読む者の胸を搏つ。慈道法親王玉葉3首、風雅4首、勅撰入集は計21首とも25首とも。歌集には200首近くを収める、と。


 むすぶ手の雫に濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな  紀貫之

古今集、離別。
邦雄曰く、「志賀の山越えにて、石井のもとにて、もの言ひける人の別れける折によめる」と詞書あり、貫之第一の秀歌とも言われた作。浅い山の井はすくえば濁り、濁れば存分に、飽くほどは飲まぬという上句が序詞になっている。現実の行動が裏づけられてはいても、まことに悠長で、夏の清水がぬるくなってしまいそうだが、それも古今集の面白みであろう、と。


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