友恋ふる遠山鳥のますかがみ‥‥

Niousokkizu

―表象の森− フェノロサと芳崖

1882(明治15)年、内国絵画共進会−第1回日本画コンクールとでもいうべきか−の審査員を務めたフェノロサは、「田舎の気違いおやじ」と揶揄されていた狩野芳崖の絵に「本会最大の傑作」と絶賛を惜しまなかった。
日本の伝統美術に惚れ込み、日本画復興運動に若き情熱をたぎらせていた青年フェノロサと、溢れる才能のままに新風を求めて奔放な画風を拓いてきたものの、時流に合わず不遇をかこっていた狩野芳崖の、運命の出会いである。時にフェノロサ29歳、芳崖はすでに54歳を数えていた。
翌1883(明治16)年に芳崖は、第2回パリ日本美術縦覧会に2点を出品、芳崖の才能にいよいよ確信を深めたフェノロサは、この年の末より自宅(現・東大キャンパス)の近くに転居させ、月俸20円を支給し、画業に専念できるようにした。
こうして二人の新日本画創造の共同作業がはじまり、さまざまな新工夫が試みられた。

写真「仁王捉鬼図」はこの二人の共同作業が結実した集大成的作品とされる。
従来制約の多かった鍾馗図を仁王に置き換えることで構図の自由化を図ったといわれ、フランスから顔料を取り寄せては、常識を破る色彩効果を狙った。
成程、不思議といえば不思議な絵である。
仁王が忿怒の相で邪気をひと捻り、その主題の図に対し背景に配された形象の奇異なこと夥しいものがある。龍が描かれた装飾文様の柱や煌々と灯されたシャンデリアがあれば、床は植物文様の絨毯か。
どうやらこれらの装飾モティーフは、当時、工芸品の図案考案を課せられていた新日本画における実用的要請からのものらしい。
それにしても、不動明王なら火炎となるべきが、この仁王の背後から涌き立つ緑色の雲煙のごときは、仁王の肉身の朱色と相俟って、卓抜な色彩の妙を発揮している。複雑怪奇な形象を多岐に描きながら、破綻のない迫力で画面を埋めつくした表現力とその技法の熟練は、たんなる新奇を越えて非凡な魅力を湛えている。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−51>
 すずき取る海人の燈火よそにだに見ぬ人ゆゑに恋ふるこのころ  作者未詳

万葉集、巻十一、物に寄せて思ひを陳ぶ。
邦雄曰く、遠目にさえ見ることのできない人、それでもさらに愛しさの募る人、われから不可解な恋の歎きを、意外な序詞でつなぐ、「すずき取る海人の燈火」こそ「よそ」を導き出す詞である。鱸は古くから愛され、万葉にも数首見える。しかも暗黒の海にちらちらと燃える漁り火が、作者の胸の思いの火の象徴となる。序詞が生きて働く、万葉歌のみのめでたさか、と。


 友恋ふる遠山鳥のますかがみ見るになぐさむほどのはかなさ  待賢門院堀河

邦雄曰く、山鳥は夜毎雌雄が山を隔てて別々に寝るという。二羽が互に伴侶を恋うて呼び合う。「真澄鏡−ますかがみ」は万葉以来「ますかがみ見飽かぬ君に」のように「見」の枕詞、愛する人の契りなど思いもよらず、ただ、それとなくまみえるのみの悲しみ。下句に収斂された忍恋の趣き、さすが中古六歌仙の一人、神祇伯顕仲の女のなかでも第一と謳われた作者ではある、と。


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