恋ひ侘びてながむる空の浮雲や‥‥

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−表象の森− 「夜色楼台図」と「月天心

俳諧では若くして宗匠となるなどその文才を早くから発揮した蕪村だったが、絵画における熟達の道はなかなか険しかったようで、晩年に至るまでずいぶんと技法研鑽の変遷を経たようである。
その蕪村の遺した画群にあって、ひときわ異彩を放っているのが「夜色楼台図」であろうか。
縦は尺に足らず、横長は4尺余りの画面一杯に、「ふとん着て寝たる姿や東山」の嵐雪の句を髣髴とさせる東山三十六峰の山脈を背景に、市街地の無数の町屋根がつづき、山々や市街も一面の銀世界という、夜の黒と雪の白だけのモノクローム
夜の街なみ風景が画題となるのは、京都でいえば祇園・島原などの歓楽街が発達し、燈火の菜種油がかなり廉価で流通するようになった江戸期になってからのようだが、蕪村のこの絵には、あたり一面の雪景色の中に、街の火影があちこちと点在して、その下で暮らす市井の人々の温みがほのかに感じられる。

蕪村は、街に生き街に死んだ、文人画家であった。
俳諧を通じて親交のあった上田秋成は、蕪村薨去に際し
「かな書きの詩人西せり東風吹きて」と追悼の句を詠んでいる。
漢詩における主題や語法を巧みに採り入れて、俳諧に新境地を拓いた蕪村を、「かな書きの詩人」の一語がよく言い当てている。

月天心貧しき町を通りけり」
誰もが知る蕪村の代表句の一つだが、安東次男の教えるところによれば、この句の初五ははじめ「名月や」また「名月に」であったという。
「名月や」ならば、あくまでも下界から眺めている月とみえようが、「月天心」となれば、月を仰いでいるというよりも、体言切れの強勢がむしろ逆に天心の月から俯瞰されているような感じを惹起する。
くまなく照らし出された家並みの下には、微視的に見れば月の光の届かぬ生活の気配がある。蕪村はこの巨視の眼の中に、人界の営みを包み込みたくて改案したのはないか。暗い町裏の軒下をひたひたと歩いてゆく蕪村の足音と、月明りの屋根の上を音もなく過ぎてゆくもう一人の蕪村の気配が、同時に伝わってくるところが面白い、と。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−53>
 いかにせむ宇陀の焼野に臥す鳥のよそに隠れぬ恋のつかれを  元可

公義集、恋、顕恋。
邦雄曰く、恋ゆえに身を細らせる、その衰えをやつれを、隠そうとは努めていても、「ものや思ふと人の問ふまで」目立つようになった。上句全体が序詞になっている歌、14世紀の北朝武士としては、珍しい例であろう。その序詞も、恋の火に身を焦がしたことを、「焼野」の彼方に暗示した。結句の「恋の疲れを」も新しく、親しみがある。俗名は橘公義、と。


 恋ひ侘びてながむる空の浮雲やわが下燃えのけぶりなるらむ  周防内侍

金葉集、恋下、郁芳門院の根合せに恋の心よめる。
邦雄曰く、この歌の誉れによって「下燃の内司」と呼ばれたと伝える秀歌。新古今・恋二巻首の「下燃の少将」俊成女の作は、これに倣ったと思われるがやや劣るか。歌合は寛治7(1903)年5月5日。左は女房の大弐「衣手は涙に流れぬ紅の八入は恋の染むるなりけり。右、周防内侍の作は結句「けぶりなるらむ」。判も判詞も不詳であるが明らかに右勝、と。


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