わが恋は狩場の雉子の草隠れ‥‥

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−世間虚仮− 消えゆく「連結机」

机と椅子が一体化したいわゆる「連結机」が、大阪府下一円の府立高校に導入されはじめたのは、生徒急増期の昭和30年代だったそうな。
とはいっても、私の現役時代にはついにお目にかからなかったから、市岡ではもう少しあとのことだったろう。
椅子を自由に動かせないなんてずいぶん窮屈なものだし、教室の清掃時など不便きわまりないと思うが、鉄製パイプで組まれた構造はたしかによく考えられたもので意外に強度があり、耐久性が買われてか、以後、他府県にもかなり普及したようだった。
それが40年余も経てみれば、いつのまにかどんどん姿を消し、ひとり端を発した大阪だけに使われていて、昨今では大阪の隠れた府立高名物?となっていたらしい。
大阪府下では’00年度から段階的にセパレート型に移行しはじめ、現在2万5000人の生徒がなお使用しているとか。これが今後両三年ですべて買換をし、名物「連結机」はとうとう姿を消すという。
昭和30年代の「連結机」導入は、さすが経済的合理精神の発達した大阪の先取性の発露かともみえるが、以後40年余の歳月は、’70(S45)年の大阪万博を頂点として下降局面に入り、地盤沈下の長い旅路となって、いまや昔日の面影なく、復興の夢も遠く儚い大阪へと変容せしめた、というのが現実の似姿だろう。
「連結机」の消長もまた、昭和30年代からの大阪の消長と軌を一にしているようにもみえてくる。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−54>
 水の上に浮きたる鳥の跡もなくおぼつかなさを思ふ頃かな  藤原伊尹

新古今集、恋一、たびたび返事せぬ女に。
邦雄曰く、第二、三句に現れる「鳥の跡」は、別に文字のことをも意味する。即ち、黄帝の臣蒼頡が鳥の足跡から初めて文字を案出した故事に依る。文字、すなわち書簡、女からの便りが途絶えがちなことを、水鳥の足跡のないのに懸けた。鳥の行方が気にかかりつつ、それが暗に、詞書の意をも兼ねているとするほうが面白かろう。冷え侘びた風情あり、と。


 わが恋は狩場の雉子の草隠れあらはれて鳴く時もなければ  仏国

仏国禅師御詠、寄鳥詠といふ題にて。
仁治2(1241)年−正和5(1316)年、後嵯峨院の皇子だが、その母は不詳とされる。出家して後、無学祖元の弟子となり、那須黒羽に雲巌寺を開山。風雅集に2首、新続古今集に1首。
邦雄曰く、後嵯峨帝の皇子、16才で出家した。夢想国師の師。その御詠はわずか29首しか伝わっていないが、中に一首恋歌、題詠とはいえ、忍恋を、逐われる雉子の心に類え、人に隠れて泣くという、切なさを十分に盡していて家集中でも抜群の出来、貴重な作品ではある。「狩場の雉子」とはまた最早逃れがたい命の譬喩となる。併せて味わいたい、と。


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