わが恋は行くへも知らず果てもなし‥‥

Alti200408

−表象の森− リンゴの中を走る汽車

  こんなやみよののはらのなかをゆくときは
  客車のまどはみんな水族館の窓になる
    乾いたでんしんばしらの列が
    せはしく遷ってゐるらしい
    きしゃは銀河系の玲瓏レンズ
    巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
  りんごのなかをはしってゐる
  けれどもここはいったいどこの停車場だ
  枕木を焼いてこさえた柵が立ち
    八月の よるのしづまの 寒天凝膠(アガアゼル)


宮沢賢治の「青森挽歌」という長詩(252行詩)の、冒頭の数行。
リンゴというものの形態――
それは丸いものにはちがいないが、閉じられた球体などではなく、孔のある球体であること。
それ自身の内部に向かって誘い込むような、<本質的な−孔>をもつ球体。
「りんごのなかをはしってゐる」汽車とは、
存在の芯の秘密の在り処に向かって直進していく罪深い想像力を誘発しながら、
閉じられた球体の「裏」と「表」の、つまりは内部と外部との反転を旅するものとなる。
畢竟、私たちの身体の、その脊髄内部の中枢神経は、もとはといえば、肺の表面を覆っていた外胚葉の<陥入>によるものである、という。
いわば、私たちの身体は、内側に向かって、一旦、裏返されているものなのだから、
賢治の、このリンゴのなかを走る汽車のように、
空間の外部が内部に吸い込まれていく、反転のイメージは、
生物の発生学では、なじみの深い形象でもあるのだ。
    −参照:見田宗介宮沢賢治−存在の祭りの中へ」岩波現代文庫


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−56>
 時しもあれ空飛ぶ鳥の一声も思ふ方より来てや鳴くらむ  藤原良経

六百番歌合、恋、寄鳥恋。
邦雄曰く、鳥もまた「思ふ方より来て」鳴くとは、先蹤の少ない発想であろう。当然右方人から論難の声あり、「などさは思はれけるにや」。俊成にもこの歌の斬新な思考と文体は理解できなかった。「空飛ぶ鳥の一声は何鳥にか」と愚問を提出、家房の平凡至極な鶏の歌を勝とする。定家は問題作「鴨のゐる入江の波を心にて胸と袖とに騒ぐ恋かな」で勝、と。


 わが恋は行くへも知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ  凡河内躬恆

古今集、恋二、題知らず。
邦雄曰く、王朝恋歌名作の一つ。三句切れの強勢助詞結句、その姿悠々たるものあり、忍恋の、しかも望みも薄い仲であるにもかかわらず、陰々滅々の趣きなどさらさらない。逢うまでは恋い続けよう。望みを遂げたら死ぬも可と、暗に、言外に宣言する姿の雄々しさは無類と言おう。空々漠々あまりの遙けさに、恋の歌であることをたまゆら忘れそうになる、と。


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