青駒の足掻きを早み雲居にそ‥‥

「狂い」のすすめ (集英社新書)

「狂い」のすすめ (集英社新書)

−表象の森− ひろさちや

その著書を読んだことがなくとも「ひろさちや」というこの仮名書きのペンネームには覚えのある人は多いだろう。平易な言葉で仏教や宗教を説き、人生論を語って、その著作は400冊以上を数えるというから畏れ入ったる多作ぶりだ。
この御仁が、同じ市岡15期生H女の兄者と聞かされたのはつい先頃。その縁を頼りに、この秋に予程の同窓会総会にゲストとして講演を依頼しようという話が持ち上がってきた。明日(6/30)がその決定をみる幹事会とて、まるで付け焼き刃みたいなものだが、急遽彼の近著を取り寄せて読む仕儀となった。
ひろさちや−本名は増原良彦、昭和11(1936)年生れというから今年71歳となる。北野高校から東大文へ。印度哲学の博士課程を経て、気象大学校に20年勤務の後退官し、フリーで著作活動。現在、大正大学客員教授
ひろさちやというペンネームの由来は、ギリシア語の「phillo(フィロ)−愛する」と、サンスクリット語の「satiya(サティヤ)−真理」を合成したものらしく、ずいぶんとご大層なネーミングに畏れ入ったが、これはwikipediaからの情報。
ついでにwikipediaによれば、文壇にこんな賞があったとはついぞ知らなかったが、「日本雑学大賞」なるものを昭和55(1980)年に受賞している。本賞は前年の54年から創設され、年々の受賞者に、柳瀬尚紀鈴木健二楠田枝里子はらたいら池田満寿夫内館牧子嵐山光三郎鈴木その子日野原重明小沢昭一などが名を連ね、雑学の名に恥じぬバラエティーの豊かさには驚き入った。
とりあえず私が読んだのは集英社新書の「『狂い』のすすめ」、今年の1月に第1刷発行で、5月にはすでに第7刷となっているから、結構売れているとみえる。
黄色の帯には、人生に意味なんてありません。「生き甲斐」なんてペテンです。と大書され、この言といい、タイトルといい、逆転の発想で世間智や常識を一刀両断とばかり勇ましいことこのうえないが、全体を4章立てとし、小見出しを振られた30節の短い文で構成された、仏教的知をベースに世間智を逆手に取って開陳される人生訓は、決して奇想というほどのこともなく、とりたててラディカルというわけでもない。
冒頭の一節は、勿論、室町歌謡「閑吟集」にある「一期は夢よ、ただ狂へ」を引いてはじまる。そして、風狂の人、一休宗純にお出ましいただいて、「狂者の自覚」へと逆説的説法は進むという次第だ。
その一休の道歌を引けば、
「生まれては死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も」
「世の中は食うてはこ(室内用の便器)してねて起きて さてそのあとは死ぬるばかりよ」


筆者の論理は往々にして捻りがあったとしても比較的単純明快、思索が重層しまた輻湊し多極的に構造化していくようなものではない。人生なら人生の違った断面をあれこれと多様に切り取りつつ、筆者流の仏教的知でいろいろと変奏してみせてくれるばかりだ。
400冊以上もの書を世に送り出している剛の者、仏教的世界への誘いも、その知を活かした人生論も、いわば自家薬籠中の世界、すでにHow to化した世界なのではないか。
本書でもっとも筆者らしい特質が表れているのではないかと思えた箇所を、かいつまんで紹介すれば、
かりに神が存在していて、その神が人間を創ったとしても、神はなんらかの目的を持って人間を創ったのではない。−と、これはサルトルの主張でもある。−
だから、人間は本質的に自由、なのだ。人間を束縛するものはなにもない。これが実存主義の主張だ。
ということは、人生そのものが無意味なのだ。そもそも意味とは、神の頭の中にしかないものだからだ。
生きる意味がない、とすれば、人はなぜ生きるのか、それは、
「――ついでに生きている――」 とでもいうしかない、それ以上でも以下でもない。
と、まあ要約すればそんなところだが、人生や世間なるものに真っ向から対峙してどうこうするとか、或いは降りるとかいうのではなく、横すべりに滑ってはみ出してみる、少しばかり逸脱したところに身を置くといった感の、「ついでに生きる」という謂いに、彼流のオリジナルがみられるように思え、このあたりがひろさちやの真骨頂というべきなのだろう。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−57>
 鳥の行く夕べの空よその夜にはわれも急ぎし方はさだめなき  伏見院

風雅集、恋伍、恋の歌に。
邦雄曰く、言うまでもなく、鳥の指す方がねぐらであるように、男の急ぐ行く手は愛人の家、それを表には全く現さず、暗示するに止めたところは老巧である。「夕べの空よその夜には」の小刻みな畳みかけも調べに精彩を加えた。溢れ出ようとする詞を、抑えに抑えて、息をひそめるように質素に歌ったところに、風雅集時代の、殊に恋歌の好ましさが感じられる、と。


 青駒の足掻きを早み雲居にそ妹があたりを過ぎて来にける  柿本人麿

万葉集、巻二、相聞。
邦雄曰く、知られた詞書「柿本朝臣人麿、石見国より妻に別れて上り来る時の歌」を伴う長歌2首と反歌4首の中のもの。「青駒之 足掻乎速 雲居曾 妹之當乎 過而来計類」の、上句の文字遣いなど、まさに旅人の姿を自然の中に置いて、うつつに見るようだ。「雲居にそ」の空間把握も縹渺たる悲しさ、他の妻恋歌と分かつところ。反歌4首中の白眉か、と。


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