あかねさす昼はもの思ひぬばたまの‥‥

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−表象の森− ひろさちや「狂いのすすめ」

昨夜につづき、ひろさちや氏の近著についての追い書きである。
第1章の「狂いのすすめ」から、終りの4章は「遊びのすすめ」へと結ばれ、遊狂の精神こそ世間−縁−のうちに生きる人間の最良の智恵と説かれることになるが、
その世間−縁なるものを思量するに引かれる具体的事象がいくつか面白い。
たとえば、動物社会学の知見によれば、アリはそれほど勤勉ではない、という話。
まじめに働くアリは約2割、残りの8割は怠け者。正確にいえば、2:6:2の割合で、ものすごく勤勉なアリが2割、6割が普通、怠け者が2割ということだが、6割の普通のアリを怠け者のグループへ入れれば、先述のようなことになる。
そこで、2割の勤勉な者ばかりを集めて新しい集団をつくればどうなるか。勤勉だったアリの8割が怠け者に転じてしまうのだ、という。
もうひとつ、養殖うなぎの稚魚の話。
養殖うなぎの稚魚はたいてい外国から輸入しているが、これが空輸されてきたとき、8割、9割の稚魚が死んでしまうのである。これでは採算もとれないから、窮余の一策で、試しに稚魚の中に天敵のナマズを入れて空輸してみたところ、稚魚の2割はナマズに喰われてしまっていたが、残りの8割は元気そのものだったという。
アリやうなぎの稚魚の集団における生態も、人間社会の生態も大同小異、同じようなものなのだ。それが世間というものであり、また縁のうちにあるということなのだ。


あれこれと本書で紹介された事象の中で、それなりに新鮮で刺激的なものとして私を捉えたのは、「老衰とガン」の相関的な話だ。
筆者には、放射線治療の第一人者として現代医療の最先端にいながら、逆説的でセンセーショナルな書として注目を集めた、「患者よ、ガンと闘うな」を著した近藤誠医師と対談した「がん患者よ、医療地獄の犠牲になるな−迫りくる終末期をいかに人間らしく生き遂げるか」(日本文芸社新書)があるようだが、これを引いて、
近藤医師曰く、ガンという病気は、本来ならば老衰のように楽に死ねる病気だ。高齢者がだんだんに食べなくなって、痩せて枯木のようになって、格別苦しまずに眠るように死んでいく。そういう死に方ができるのがガンなのだ、と。
また、高齢者の死因において、老衰死が極端に少なくなり、代わってガンが増大したのは、摘出手術を当然視した現代医療の徹底した普及から、手術の後遺症や抗ガン剤の副作用、病巣の転移などを誘発することが圧倒的にひろがってきたからだ。むしろ老衰のような死に方を理想とするなら、ガンを無理に発見して治療しないほうがよい場合も多々あるのだ、
と説いているが、少なくとも少壮期に発見されたガンならばともかく、壮年の晩期や初老期にさしかかってからの場合など、まこと肯ける話で、斯様に対処するが智恵というものかもしれぬ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−58>
 あかねさす昼はもの思ひぬばたまの夜はすがらに哭(ね)のみし泣かゆ  中臣宅守

万葉集、巻十五、狭野弟上娘子との贈答の歌。
邦雄曰く、昼・夜の対比による恋の表現は八代集にも見える。能宣の百人一首歌「夜は燃え昼は消えつつ」も、その一例であろうが、宅守の作は第二句までが昼、第三句以下が夜と単純に分けられ、ゆえに一途の思いが迸る感あり。「逢はむ日をその日と知らず常闇にいづれの日まで吾れ恋ひ居らむ」も連作中のもの。暗鬱で悲愴な調べは迫るものがある。


 つれもなき人の心は空蝉のむなしき恋に身をやかへてむ  八条院高倉

邦雄曰く、無情な人の心は憂く辛く、ついに蝉の脱殻のように空虚な、あても実りもない恋に、わが身を代償としてしまうのか。「憂=空蝉」の微妙な懸詞でつながる片恋の切羽詰まった悲しみを、高倉は淡彩で描きおおせている。この歌の前に、殷富門院大輔の「明日知らぬ命をぞ思ふおのづからあらば逢ふ夜を待つにつけても」が採られており、共にあはれ、と。


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