忘れてはうち歎かるる夕べかな‥‥

Syarihotsu
写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「舎利弗の柵」

−表象の森− 釈迦十大弟子の一、舎利弗

舎利弗は、智恵第一なり。般若心経の舎利子は之のことなり。
マガダ国王舎城の北、ウパティッサ村、バラモンの裕福な家に生まれた。
親友目連とともに懐疑論者サンジャヤの高弟であったが、
釈迦の弟子アッサジ比丘と偶々出会い、その教えに触れるやたちまち悟りを開いたという。
すぐさま目連にこれを伝えれば、彼もまた大いに理解し、二人して師のサンジャヤを説き伏せ、ともに釈迦に帰依せんとするも、サンジャヤの懐疑論は動かず、已むなく二人で仏門に走った。この折、サンジャヤの弟子250人もこぞって改宗したとされる。
釈迦の信任厚く、師に代わって説法することも多く、釈迦の実子羅候羅の後見人ともなる。
舎利弗も目連も釈迦より年長であり、ともに釈迦の後継者と目されていたが、病を得、釈迦入滅に先んじて没した。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−61>
 あまた見し豊(トヨ)の御禊(ミソギ)のもろびとの君しもものを思はするかな  寛祐

拾遺集、恋一。
生没年未詳、10世紀の歌人三十六歌仙源公忠の子とされるも、伝詳らかならず。
邦雄曰く、詞書には「大嘗会の御禊に物見侍りける所に、童の侍りけるを見て、またの日遣はしける」とあり、美少年を見初めての作。勅撰集には、後に詞花集に現れるのみで、珍しい例とされる。豊の御禊は賀茂川の二条、三条の河原に行幸があって行われる「河原の御祓」で、天皇即位の後の大嘗会の前月の潔斎。寛祐は勅撰歌人で調香の名手源公忠の子、と。


 忘れてはうち歎かるる夕べかなわれのみ知りて過ぐる月日を  式子内親王

新古今集、恋一、百首歌の中に、忍恋。
邦雄曰く、待っていたとて人は来るはずもない。思えば、愛を打ち明けることも忘れていたのだから。自分一人の思いを胸に秘めて、すでに久しい間こうして耐えてきた。忘れていたのではない、おそらくいつまでも告げることはあるまい。縷々たる恋の歎きは、結句の「過ぐる月日を」の、声を殺したような特殊な「を」によって、決して終わることはないだろう、と。


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