思ひ出でよ誰がかね言の末ならむ‥‥

図説 アラビアンナイト (ふくろうの本/世界の文化)

図説 アラビアンナイト (ふくろうの本/世界の文化)

−表象の森− アラビアンナイト」の日本的受容

以下は、先に紹介した西尾哲夫著「アラビアンナイト−文明のはざまに生まれた物語」の終章「オリエンタリズムを超えて」における−アラビアンナイトと近代日本のオリエンタリズム−と題された掌編の要約である。

日本は、「アラビアンナイト」とはヨーロッパ文明の一要素であると見なしてこれを受容した。これにともない、「アラビアンナイト」との接触を通して形成されていったオリエントもしくは中東のイメージが日本にも入りこむことになった。これらのイメージが若干の変形を受けながらも日本の風土に移植された時期の日本人は、明治以前に知られていたものとは構造的に異なった世界システムへの対処法を探っていた。やがて日本が自らをヨーロッパ文明の構成員であると見なすようになると、ヨーロッパの近代化プロセスに埋めこまれていたオリエンタリズムからも影響を受けることになる。つまり日本に入ってきたのは、近代ヨーロッパに特徴的に出現したシステムとしての「オリエンタリズム」だったわけである。
だが、ヨーロッパにおける国際関係を基盤として形成された「オリエンタリズム」を明治期日本という異なった文化風土のもとで具体化するためには、ヨーロッパ人にとってのオリエントである中東に代わるべき対象を再設定する必要があった。こうして日本は中国とその周辺地域を再定義し、オリエンタリズム的視座による世界システムを再構築したのである。
このように日本は、ヨーロッパとオリエント(もしくは中東)相互の全体論的な関係の副産物であった「オリエンタリズム」を機械的に適用し、自身をヨーロッパ化することによってオリエントとしての中国を支配しようとしたが、その一方ではヨーロッパを他者として仮想することによって自己像を分裂させたのである。つまり日本におけるオリエンタリズム形成において中国、より正確には虚構上の中国が果たした役割は、近代ヨーロッパにおけるオリエンタリズム形成において中東世界が果たした役割とは異なっていたことになる。
明治期以後に進められたアイデンティティの再構築においては、ヨーロッパが二重の役割を果たすことになった。つまり日本にとってのヨーロッパは、投影による自己像、および仮想の他者の二つに分極化されたわけである。こうして明治以後の日本が採用した「オリエンタリズム」にあっては、近代ヨーロッパにおけるオリエントとしての中東が持っていた意味が失われることになった。オリエント(=中東)は、相対する他者、自己確認と自己規定のツールとしての他者としての意味を喪失し、他者としてのまなざしが交錯しない後景におしやられることになったのである。
つまりヨーロッパにとっての中東(オリエント)は、「見るもの−見られるもの、それを通じて慈子を見なおすもの」として存在したのであるが、日本的オリエンタリズムにおいては「見るもの」としての日本、「見られる」ものとしての中国、「それを通じて慈子を見なおすもの」としてのヨーロッパという三極分化が生じ、他者としての役割を中東に期待することはなかった。
日本人の想像力がアラビアンナイト中に見出だした中東世界は、ヨーロッパと中国(もしくはアジア)の彼方に存在している。結局のところ、現代の日本人にとって「アラビアンナイト」の世界はシルクロードの果てに広がるファンタジィの世界であり、江戸時代の庶民が見慣れた三国(日本・中国・インド)地図の片端に描かれたような実体のない異域にとどまっているといえるだろう。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−65>
 思ひ出でよ誰がかね言の末ならむ昨日の雲のあとの山風  藤原家隆

邦雄曰く、家隆自讃歌二首の中。千五百番歌合中の名歌であり、新古今集恋の白眉の一つともいえようか。昨日吹き払われた雲の、その後の空に、今日も風は吹き荒れる。初句切れの命令形さえ、三句切れの深みのある推量で、恨みを朧にする。歌合では六条家顕昭の奇怪な判によれば、左、西園寺公経の凡作との番が持。勿論、公経の歌は新古今には洩れた、と。


 心のみなほひく琴の緒を弱み音に立てわぶる身とは知りきや  飛鳥井雅世

飛鳥井雅世集、寄緒恋。
邦雄曰く、琴の緒は即ち玉の緒、恋にやつれ、弱り、それでもなお諦め得ぬ悲しみを、そのまま、弾琴のさまになぞらえて、あたかも楽と恋慕の主題を、詞の二重奏のように調べ上げた。結句の反問もむせぶかに響く。「寄鐘恋」では「ひとりのみ寝よとの鐘の声はして待つ宵過ぐるほどぞ悲しき」があり、15世紀も中葉の、歌の姿の一面を見せてくれる、と


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