曇り日の影としなれるわれなれば‥‥

−表象の森− 「林住期」を生きる

「林住期」という語も、最近は五木寛之の「林住期」と題されたそのものズバリの著書が出るに及んで、巷間つとに知られるようになったようだ。
抑も「林住期」とは、古来ヒンドゥ教の訓える「四住期」の一。
学生期・家住期・林住期・遊行期と、人生を4つの時期に区分し規定したとされる。
学生期(がくしょうき)とは、師について学び、禁欲的な生活をおくり、自己の確立をまっとうすべき時期、とでもいうか。
家住期(かじゅうき)とは、結婚し子どもをもうけ、職業に専念、家政を充実させるべき時期。
林住期(りんじゅうき)とは、親から子へと世代交代をなし、古くバラモンならば、妻と共に森に暮らし祈りと瞑想の日々を送るということになるが、今の世ならば、さまざまに縛られてきた責務から自らを解放し、やりたいことをやろうという時期とでもいうか。
されば、遊行(ゆぎょうき)期とは、バラモンでは林住期においてなお祭祀などの義務を残していたが、ここではもはや一切を捨て、おのが死に向かって遊行遍歴の旅人と化す時期であろうか。
これら「四住期」については、手塚治虫の長編「ブッダ」にもすでに触れられていたと聞くが、私の場合、山折哲雄の編著として出版された「林住期を生きる」が初見であった。
この書では、現代においてまさに「林住期」を生きる五人各様の生きざまが、各々自身の言葉でもって綴られているが、以下ごく簡単に紹介しておく。

富山と石川の県境近く、山深い久利須という里に住む美谷克己は、偶々市岡高校の期友だが、二十数年前から、炭焼きをし畑を耕し、安藤昌益の謂う「直耕の民」としていまなお生き続けるが、決して孤影の仙人暮しなどではなく、かの僻地に住まいしたことが却って政治的にも文化的にも連帯のネットワークを飛躍的にひろげたものと見えて、その活動はどんどん活発化しているようだ。
東京都世田谷区の保健婦だった足立紀子は、55歳で早期退職、社会人大学に入学し、四国八十八箇所の遍路へと旅立ち、さらに大学院へと進み、おのが興味の尽きない勉学と気儘な放浪の旅を往還する人生だ。
神戸癒しの学校を主宰する叶治泉は、阪神大震災の彼我の生死を分かつ被災体験を契機に、大峯山奥駆修行に発った。以来自戒としてか毎年この山野の行を欠かさず、里の行たる癒しの学校運営に専心しているという。
若い頃の十数年を、釈迦ゆかりの地、インドの王舎城にて藤井日達翁のもとで出家修行した成松幹典は、36歳で還俗、日本に帰国してのち家庭を持ったが、さらに十数年後、こんどは家族とともにネパール・ポカラへと移住、ヒマラヤのアンナプルナ連峰が映える風光明媚な地でホテル支配人として日々を暮らす。
「仏教ホスピスの会」会員として終末期の患者やその家族と関わり続ける三橋尚伸は、迷宮とも見える仏教知の世界を放浪した挙げ句、東方学院に学び出家得度をしたれっきとした僧だが、いわば在家としてホスピス・ボランティアに生きる有髪の尼僧だ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−66>
 片糸のあはずはさてや絶えなまし契りぞ人の長き玉の緒  後鳥羽院下野

新勅撰集、恋五、右衛門督為家、百首の歌よませ侍りける恋の歌。
邦雄曰く、縒り合せていない糸は、二筋撚らぬ限り、甚だ弱いものだ。そのように一人と一人は逢わぬ限り、たとえ慕い合っていてもいつか仲が絶える。縒糸とする力こそ契りであろうし、それが二人の末長い命となろう。玉の緒は一人一人の恋の片糸によって絶たれも繋がれもしよう。下野は小比叡禰宜祝部家出自、院配流後の遠島御歌合作者の一人、と。


 曇り日の影としなれるわれなれば目にこそ見えね身をば離れず  下野雄宗

古今集、恋四、題知らず。
生没年、伝未詳。下野氏は崇神天皇の皇子豊城命を始祖とする東国の豪族と伝えられる。
邦雄曰く、影は曇り日にもある。人の目に見えぬだけなのだ。私は君の身を離れない。曇り日の影のように人知れず、ひったりと影身に添うて恋いつづけるだろう。他の恋歌といささか発想を異にした不気味な迫力を持つ歌である。現代ならこの歌を贈られた人は慄然として、肌に粟を生ずるだろう。作者は六位、生没年等は一切不詳。採られたのは一首のみ、と。


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