かはれただ別るる道の野辺の露‥‥

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−表象の森− 太田省吾の死

「小町風伝」や「水の駅」など、非常に緩いテンポで、あるいは沈黙の舞台で、演劇の常識を転倒させ、ならばこそ比類のない劇的空間を現出せしめた演出家・太田省吾の訃報が14日の朝刊で報じられていた。
肺ガンで入院中、肺炎を併発しての急死だったという。1939年生れ、まだ67歳という早すぎる死は惜しまれてあまりある。
私は一度きりだが芦屋のルナホールで彼の舞台を観たことがある筈だが、それが「小町風伝」だったのか沈黙劇三部作の「地の駅」だったのか、記憶が混濁してはっきりしない。それでググってみたのだが、太田省吾の個人サイトにあるプロフィールによれば、1982(S57)年に大阪公演としてルナホールで「小町風伝」を上演したとあるから、おそらくその機会だったのだろう。
その頃ならば、私の身体表現の手法もすでに数年前から即興を主体とし、しかもその動きを時間の引き延ばし−緩やかなテンポにすることで、一瞬々々の細部の生動化を図ろうとしてきたから、彼の発想の切口にも、衝撃を受けるというものではなかったのだが、ただ演劇と舞踊の、その様式の差が結果においてずいぶんと距離をもたせるものだと確認させられたような舞台であったかと記憶する。
早稲田小劇場を率いた鈴木忠志と同年ながら、やや遅れて70年後半に注目を浴びるようになった彼は、鈴木の拓いてみせた方法に、どうしても対抗的発想に立たざるを得なかったのでないだろうか、と私には思われ、鈴木忠志の劇世界と太田省吾のそれとを対称性においてみるというのが、私のスタンスであったと、彼の死を聞いた今、ふりかえって再認させられている。
劇評家の扇田昭彦が劇作家や演出家たちとの対談記をまとめた「劇談」(小学館)という書があるが、
このなかで太田は「物は晴れた日より、曇った日の方がよく見える」と彼のエッセイで言っていたと紹介されているが、この発想が、演技者の行為というものを、極端に緩いテンポにしてみせることで、却ってその生を、生の細部をまざまざと照り返すという、転倒させた方法論を生み出させたのだろう。
この対談のなかで、もうひとつ面白い話は「蛸の足」論である。嘗てジャン・コクトーがサティの音楽を、まるで蛸の足のように観客を絡め取ろうとするのがサティ以前の近代音楽で、現代の音楽であるサティは蛸の足的音楽ではない、とコクトーはそう捉えた。太田もまたコクトーのサティ解釈に倣い、蛸の足的演劇から、どこまでも遠く逃れようとしてきた、というわけである。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−70>
 かはれただ別るる道の野辺の露いのちに向かふものは思はじ  藤原定家

六百番歌合、恋、別恋。
邦雄曰く、華やかな技法の彩は見せず、直叙法で、圧倒するような激しい調べである。この百首でも稀な、例外的な構成で、殊に珍しい倒置命令形の初句切れに、否定形決意の結句の照応は、侵すべからざるものを感じさせる。右方人の難陳「詞続かず」、すなわち句切れ頻りの意。俊成は右、経家の凡作を負とした。この歌いずれ勅撰集にも採られていない、と。


 あひ見ても千々に砕くる魂のおぼつかなさを思ひおこせよ  藤原元真

元真集。
邦雄曰く、自分自身に向かって静かに説き聞かせるような諄々たる調べは、時代を超えて読者の胸に沁むものあり。「たましひのおぼつかなさ」とは、類を絶した修辞として記憶に値しよう。恋がすべての人を初心に帰らせる、この悲しさ。逢わねば死ぬ思い、とはいえ、逢えば逢うで明日の愛の行方を思い煩う。真理に隠れた主題は永遠に強い一つの好例であろう、と。


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