人住まぬ不破の関屋の板びさし‥‥

Ubari

写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「優婆離の柵」

−表象の森− 釈迦十大弟子の八、優婆離

優婆離は、持律第一となり。
乃ち、戒律を厳守するに殊に優れてあった。釈尊が入滅してまもなく行われた初めての結集(=第1回経典編集会議とでもいうべきか)において、優婆離は戒律の制定においてその中軸となったとされる。
彼は身分低く、釈迦族の理髪師であった。ある時、釈迦族の6人の貴族たちが釈尊に帰依しようと旅立った際に従者として同行した。旅の途中、貴族たちは出家に必要のない財貨を彼に託して国へ帰すべく別れたが、このまま独り国へ帰れば、貴族たちの出家を止め得なかったとして、どんな咎めを受けぬとも限らないと考えた彼は、自分も出家しようと貴族たちの後を追った。必死に先を急いだ彼は、いつのまにか貴族たちを追い越してしまったとみえて、釈尊の許へ先に着いてしまい、そのまま弟子入りを果たしたため、身分の上下を問わない教団にあっては、彼を使役していた貴族たちの先輩となってしまったという。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−32>
 知らざりし八十瀬の波を分け過ぎてかたしくものは伊勢の浜萩  宜秋門院丹後

新古今集、羈旅、百首奉りし時。
邦雄曰く、院初度百首作品。本歌は源氏物語の「賢木」にみえる「鈴鹿川八十瀬の波に濡れ濡れず伊勢まで誰か思ひおこせむ」。独り旅の侘しい旅ゆえに、夜になって歎くのは伊勢の海辺に生う萩。初句「知らざりし」は連体形で「八十瀬の波」にかかる。もし初句切れなら「知らざりき」とあるはず、この場合は「片敷く」行為にも未知は関連するだろう、と。


 人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにし後はただ秋の風  藤原良経

新古今集、雑中、和歌所歌合に、関路秋風といふことを。
邦雄曰く、建仁元(1201)年、良経32歳の秋の影供歌合の歌。不破の関は廃されてから、この頃すでに4世紀以上経過している。。この歌の要は、第三句「板廂」と結句の「ただ秋の風」であろう。ありふれた古詠歌が、これで別趣の寂寥感をもつ。殊に結句の、切って捨てたような冷え冷えとした語調は、良経独特の凄みさえ伴って一種不可思議の感あり、と。


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