夜もすがら心のゆくえ尋ぬれば‥‥

Ananda

写真は、棟方志功「釈迦十大弟子」より「阿難陀の柵」

−表象の森− 釈迦十大弟子の十、阿難陀

阿難は阿難陀とも、多聞第一となり。
釈尊と同じ釈迦族の出身で、釈迦の従弟といい、提婆達多の弟とされるが、異なる諸説あって判然としない。
彼は侍者として25年のあいだ釈尊のそば近くに仕えた。したがって直に釈尊の説法を聴聞することがとくに多かったので、多聞第一と呼ばれる。
当初、女人の出家を認めなかった釈尊が、後にこれを認めるようになったのは阿難の説得によるものといわれる。教団に比丘尼の存在が登場するようになったわけだ。
侍者として25年も仕えた阿難であったが、どうしたわけか釈尊入滅に至るまで彼は阿羅漢=悟りを得た者になっていなかった。そのままでは入滅後の結集に参加することは許されないのだが、多聞第一の阿難を除いては、経典編纂の仕事もはかどらない。そこで摩訶迦葉が徹底指導をしたところ、その過酷さに疲労困憊のまま、まさに寝所に倒れ込まんとしたところ豁然と覚ったという。
阿羅漢となって結集に間に合った阿難は、25年の侍者としての体験をもって、経典編纂の会議を終始リードした、と。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−36>
 紀伊国や白良の浜の知りせねばことわりなりや和歌のうらみは  藤原顕綱

讃岐入道集、人々など呼びて和歌よむに、呼ばずとて恨み起せたりければ。
邦雄曰く、平家物語にも「或は白良、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上の月の曙を、眺めて帰る人も有りけり」と称えられた紀伊国牟婁郡の歌枕。苦参の花の百和香の歌で名高い讃岐入道は、縁語と懸詞の綴れ錦を爽やかに織りなし、和歌の浦みに、辛みのある「和歌の恨み」を閃かせた。作者の女は、堀川帝の寵を受けた讃岐典侍日記の著者、と。

 夜もすがら心のゆくえ尋ぬれば昨日の空に飛ぶ鳥のあと  仏国

風雅集、釈教、題知らず。
邦雄曰く、見事な「虚無」の愉である。下句は魚の泳いだ痕跡でも、虫の這った名残でも、決してこの茫々たる悲しみは再現されない。「ば」とことわりながら、理詰めにならず、えもいえぬ優しさと安らぎを湛えているところは、一に作者の徳であり、同時に得がたい詩魂の賜物でもあろう。風雅・釈教の珠玉として、おのずから他と分かつところのある秀作、と。


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