消えかへり心ひとつの下萩に‥‥

Haisennikki_2

−表象の森− 「敗戦日記」

高見順「敗戦日記」読了。
昭和20年の1月1日から終戦詔勅を経て12月31日までの、中村真一郎に「書き魔」とまで言わしめた文人の戦時下の日々を執拗なまでに書き続けた日記。
おもしろかった。敗戦間近の極限に追いつめられた日本とその国民の様子がきわめて克明に記述されている点、また敗戦後のマッカーサー進駐軍占領下の人々の様子においても然り、具体的な事実の積み重ねに文人としての自らの煩悶と焦慮が重ね合わされ、興味尽きないものがある。

高見順は戦中転向派の一人である。
明治40(1907)年生れ、父は当時の福井県知事阪本詝之助だが非嫡出子、いわゆる私生児である。1歳で母と上京、実父とは一度も会わないまま東京麻生において育ったという。
東大英文科の卒業だが、在学時より「左翼芸術」などに投稿、プロレタリア文学の一翼を担う作家として活動をしていたが、昭和7(1932)年、治安維持法違反の嫌疑で検挙され投獄され、獄中「転向」を表明し、半年後に釈放されている。
一旦、転向表明をしてしまった者に対し、軍部は呵責のない徴用を課する。昭和17(1942)年のほぼ1年間、ビルマに陸軍報道班員として滞在、さらには昭和19(1944)年6月からの半年、同じく報道班員として中国へ赴いている。
ビルマの徴用を終え帰国してまもなく、東京の大森から鎌倉の大船へと居を移した。鎌倉には大正の頃から多くの文人たちが住まいした。芥川龍之介、有島生馬、里見紝大佛次郎など。昭和に入ると、久米正雄をはじめ、小林秀雄林房雄川端康成中山義秀などが続々と住みついていたから、遅ればせながら鎌倉文士たちへの仲間入りという格好である。

この鎌倉文士たちが集って貸本屋開設の運びとなる。多くの蔵書が空襲で無為に帰しても意味がないし、原稿執筆の収入も逼迫してきた事情もあっての企図であった。高見は番頭格として準備から運営にと東奔西走、5月1日無事「鎌倉文庫」は開店した。この日100名余りの人々が保証金と借料を添え、思い思いの書を借り出していく盛況ぶりであったという。
この鎌倉文庫終戦後まもなく出版へと事業を拡張させ法人化され、文芸雑誌「人間」や「婦人文庫」、「文藝往来」などを創刊していく。

8月6日、広島に原爆投下。
新聞やラジオはこの事実をまったく伝えない。だが人の口に戸は立てられぬ。翌7日、高見は文学報告会の所用で東京へ出向いたが、その帰りの新橋駅で偶々義兄に会い、原子爆弾による被災情報を得る。「広島の全人口の三分の一がやられた」と。
それから15日の終戦詔勅まで、人々は決して公には原爆のことなど言挙げしない。貝のように閉ざしたまま黙して語らず。すでに人々の諦観は行きつくところまでいってしまっているのだろう。無表情の絶望がつづく。

<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−106>
 人はいさ思ひも出でじわれのみやあくがれし夜の月を恋ふらむ  飛鳥井雅有

隣女和歌集、三、雑。
邦雄曰く、月明りの夜、初めて人に逢い、その後朝に贈った歌との詞書がみえる。一夜の逢いの後に歌を以て名残を惜しむゆかしい習いも、13期末なればこそであろうか。直接相手を言わず、その記念すべき夜を、夜の月を忘れぬと間接話法で強調したところも、独自の味わいと言えようか。新古今時代の一方の雄雅経の孫にあたる、作者の個性躍如、と。

 消えかへり心ひとつの下萩にしのびもあへぬ秋の夕露  飛鳥井雅経

明日香井集、下、恋、承久2年7月、影供三首に、寄萩恋。
邦雄曰く、承久の乱の承久3(1221)年、勃発の直前3月に逝去した雅経が、その前年50歳の秋に作ったもの。心詞の脈絡曲折を極める明日香井流詠法の、これも一例であろう。遂げぬ恋の悲しみに、隠す術もない涙を、婉曲にしかも鮮やかな初句の切れ味で描きおおせた。新古今のたけなわの新風は作者の30代後半であるが、技法は些かも衰えをみせていない、と。


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