あづま路の夜半のながめを語らなむ‥‥

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−表象の森− 三木清の獄死

高見順の「敗戦日記」に、10月1日付冒頭、
三木清が獄死した。殺されたのだ!」と記されている。
はて、三木清の獄死は戦後すぐのことであったのか、てっきり戦時中のことだとばかり思っていたが、と気にかかり少しく調べてみた。

昭和20年3月、三木清治安維持法違反の被疑者を仮釈放中に匿ったことを理由に拘留処分を受け、東京拘置所に送られ、その後に豊多摩刑務所に移された。劣悪な衛生状態の獄中で皮膚感染症疥癬(かいせん)を移され、さらには腎臓病の悪化とともに体調を崩し、敗戦後の9月26日、独房の寝台から転がり落ちて死亡していることが発見された、という。
中嶋健蔵の説によると、「疥癬患者の毛布を三木清にあてがった。それで疥癬にかかり、全身掻きむしるような状態になり、26日の朝、看守が回ってみたら、ベッドの下の床に転げ落ちて死んでいた。もし占領軍当局がもっと早い段階で気がついていれば、彼の命は助かったかもしれない。」というのである。
事実、三木清の獄死を知ったアメリカ人ジャーナリストの奔走によって、敗戦からすでに一ヶ月余を経ていながら、政治犯が獄中で過酷な抑圧を受けつづけている実態が判明し、これに驚いた連合軍司令部はすぐさま他の政治犯釈放の措置をとることとなる。すでに軍部による旧体制破綻は明々白々のことであったにもかかわらず、当時の日本の支配層はいかにその自覚が希薄であったかを曝け出している事件でもある。
この事件を契機として戦前の国体を護持した治安維持法は、連合軍司令部によって急遽廃止を命じられた。

マルクス主義をより大きな理論的枠組みで構想し直そうとした未完の「構想力の論理」、さらに晩年は親鸞の思想に回帰しようとしたとされる三木清の「哲学ノート」や「人生論ノート」を読んだのはもうずっと遠い昔のことで、その印象もベールに包まれて今は断片とて思い出せもしないが、岩波文庫巻末に岩波茂雄の名で付された「読書子に寄す」の格調高い名文が、実は三木清によって書かれたものと聞けば、その伏線に彼の若かりし頃のドイツ留学が岩波茂雄の資金援助あってこそ実現したという両者の交わりを思う時、成る程と合点もいき、あらためてじっくりと味わってみたい。


「読書子に寄す」 −岩波文庫発刊に際して−  昭和2年7月
真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。
かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。
岩波文庫はこの要求に応じそれに励ま されて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこ れを推挙するに躊躇するものである。
このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等 種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。
この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮 せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。
芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき 共同を期待する。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−107>
 照る月も洩るる板間のあはぬ夜は濡れこそまされ返す衣手  源順

源順集、あめつちの歌、四十八首、恋。
邦雄曰く、言語遊戯に神技をみせる順の歌は、一首一首に、すぐにそれとは気づかぬ珍しいはからいがあり、まさに「読み物」の感も生まれる。月光さんさんとふる夜、あばら屋の屋根の板葺きの目の「合はぬ」を、思ふ人に「逢はぬ」に懸け、月光に濡れ同時に衣が涙に濡れることを暗示する。第三句で転調を試みて第四句では強勢、よく緩急を心得た技法である、と。


 あづま路の夜半のながめを語らなむ都の山にかかる月影  慈円

新古今集、羈旅、旅歌とてよみ侍りける。
邦雄曰く、この歌、詞書とは異なり、出典は六百番歌合「旅恋」。当然「夜半のながめを語ら」うとするのは、愛人に対する盡きぬ思いであろうが、慈円の恋歌は例によって恋の趣がほとんどない。羈旅に部類されるゆえんだ。左は定家の「ふるさとを出でしにまさる涙かな嵐の枕夢に別れて」。俊成は秀歌揃いに満悦し、「感涙ややこぼれて」と絶賛の上、持とする、と。


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