唐土もおなじ空こそしぐるらめ‥‥

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−世間虚仮− 官邸のゴミ、テレビのゴミ

政府の首相官邸に設置された、曰く「少子化」云々や「地域再生」云々、或いは「教育」「再チャレンジ」云々などなにやかやの政策会議が、雨後の竹の子のように作られて今や100を超えるとか。
首相か官房長官がトップを務めるのがそのうち76もあるそうで、さすがに福田首相も会議出席の煩瑣にたまりかねてか、休眠状態のものやら類似のものやら統廃合を促したという。
さきの安部内閣では22もの会議が新設されたのに、彼の辞任で廃止となったのはたったの4つだけ。こんな調子では無用の長物が徒花の如く咲き乱れる結果を招くのも無理はなかろう。
これらの政策会議には無論民間人からなる多くの有識者会議なるものが連座しているわけだから、金太郎飴の如くいったいどれほどのお偉方たちが名を連ねていることか。首相官邸のHPをとくと見ればこと知れるものの、あまり深追いしたくもない興醒めの話題だ。


液晶やプラズマ化の徹底で廃材となった膨大なテレビのブラウン管、そのリサイクル事情が危機に瀕している、と。
現行の「家電リサイクル法」では総重量の55%以上の再商品化を義務づけられているというブラウン管テレビは、その重量の6割を占めるブラウン管を細かく砕いて「精製カレット」にし、これを原料に再生ブラウン管を作ってきたが、国内のブラウン管需要は先細るばかりで3年後にはゼロになる見通しだから、再利用の道は途絶えかねないという。
テレビの薄型化は世界の趨勢だし、グローバル化はこれをより加速する。後発の中国や他の国々では再利用の技術さえないから、大量のブラウン管がひたすら拡大生産され、有害の鉛を含んだまま廃棄物となって野積みされてゆく恐るべき光景が現実のものとなろうが、コチラは些か深刻に過ぎて私などには想い描くさえ恐ろしい。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−126>
 唐土(もろこし)もおなじ空こそしぐるらめ唐紅にもみぢする頃  後嵯峨院

風雅集、秋下。
邦雄曰く、大弐三位絶唱「遙かなる唐土までも行くものは」を髣髴させるほど、縹渺として宇宙的な、想像力を翔らせる秀作だ。西方万里、唐はおろか天竺まで、真紅に照り映えて、そこに銀灰色の時雨がきらめき降るようだ。建長3(1251)年帝31歳、吹田に御幸の砌の十首歌会の作。類歌数多ある中に際立つのは、ひとえに帝の詞才の賜物だ、と。


 もみぢ葉の散りゆく方を尋ぬれば秋も嵐の声のみぞする  崇徳院

千載集、秋下、百首の歌召しける時、九月盡の心をよませ給ふける。
邦雄曰く、秋も今日限り、明日神無月朔日からは冬。「秋も嵐」は「秋もあらじ」を懸ける。紅の嵐の彼方に、何かの終末を告げる声が細々と聞こえる。父鳥羽帝の皇子ではなく、こともあろうに実は祖父白河院の子であった崇徳の、出生の秘密を思えば、千載集にみえる数多の秀作も、ことごとく悲歌の翳りを帯びる。九月盡は総体に三月盡ほどの秀作がない、と。


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