かよひこし枕に虫のこゑ絶えて‥‥

イザベラ・バードの日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)

イザベラ・バードの日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)


−表象の森− 蚤とねぶた

明治11(1878)年の6月から9月にかけて、東京から日光経由で新潟へと日本海に抜けて北上、北海道へと渡る旅をしたイギリス人女性イザベラ・バードが書き残した紀行文が「日本奥地紀行」だが、これを引用紹介しつつ我が国の古俗習慣を考証した宮本常一の「『日本奥池紀行』を読む」を繙いてみるといろいろな発見があってなかなか興味つきないものがある。

芭蕉連句集「猿蓑」の「夏の月」巻中に「蚤をふるいに起きし初秋」と芭蕉の詠んだ付句が出てくるが、この旅の間、彼女をずいぶんと悩ませたのがこの蚤の多さであったという。
日本旅行で大きな障害となるのは、蚤の大群と乗る馬の貧弱なことだ」と彼女が冒頭に記すように、行く先々で、蚤の群れに襲われたとか、蚤の所為でまんじりとも出来なかったとか、たえず蚤の襲来に悩まされたことを書きつけているらしい。
そういえば幼い頃、子どもたちが順々に並んでDDTを頭からかけられたりしている光景を思い出すが、蚤や虱の類は、戦後の進駐軍によるDDT散布が広まるまで、どこにでもものすごく繁殖していたわけだ。
蚤はどこにでもいるのがあたりまえで、あたりまえだから特段古文書などに出てくることもなく、いつしかそんな日常の暮らしぶりもわれわれの記憶の彼方に忘れ去られてしまっているのだ。
芭蕉には「蚤しらみ馬の尿する枕元」という発句も「奥の細道」にあり、「造化にしたがひ四時を友とす」俳諧であったればこそ「蚤・虱」もたまさか登場するが、こういうのはごく稀だから、そんなに蚤の多かった暮しぶりなど今ではなかなか想像することもむずかしい。

本書で宮本常一は青森や秋田の「ねぶた」を「蚤」と関連づけて簡潔に考証している。
「ねぶた」は「ねぶたい」であり、津軽では「ねぶた流し」といい、また秋田あたりでは「ねむり流し」といい、富山あたりまでこういう言葉があるという。
夏になると一晩中蚤に悩まされて誰もみな眠い、その眠気を流してしまおうというわけでそんな謂いとなったと。七夕の日にするからむろん厄流し、災い流しの意味も込められている行事であるわけだが、「ねぶた」というその眠い原因は「蚤」にあり、「ねぶた流し」は「蚤流し」と元来は結びついていたというのだ。
現在の派手々々しく絢爛豪華な「ねぶた祭」を支え興じる人々からはとんでもないと礫も飛んでこようが、存外こういった素朴な発想からの名付けとみるほうが実情に即しており、よほど真相に迫っていると言えるのではないかと思われる。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−128>
 夕月夜小倉の峯は名のみして山の下照る秋のもみぢ葉  後醍醐天皇

新千載集、秋下、建武二年、人々千首歌つかうまつりける次に、秋植物。
邦雄曰く、運命の帝後醍醐の詞華、勅撰入集は百首にも遙かに満たないが、後村上帝同様、宗良親王選新葉集には、力作が数多みられる。夕紅葉は勅撰集にみえるもののなかでは屈指の調べ、「小倉=を暗」の懸詞が「下照る」で巧妙に蘇り、鮮麗な幻を描くところは、なかなかの眺めである。「名のみして」のことわりに、風格をみるか無駄を感ずるかが問題、と。


 かよひこし枕に虫のこゑ絶えて嵐に秋の暮ぞ聞ゆる  越前

千五百番歌合、七百九十六番、秋四。
邦雄曰く、これぞ新古今調の秋虫、九月盡の凄まじい夕嵐、いまはもう訪う人も、まして虫の声も絶え果てた独り寝の床。調べと心緒とが綴れ織りのように経緯をなす見事な一首。左は主催者後鳥羽院の「秋山の松をば凌げ龍田姫染むるに甲斐もなき縁なり」で、定家判は持。越前の歌がよほど勝れていた証拠で、誰の眼にも御製は通り一遍の趣向を出ていない、と。


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