ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に‥‥

Hitomaro035

−世間虚仮− ある投書

新聞の投書欄などに触れることは滅多にないのだが、ふと胸を撃たれた感がしたので記しておきたい。
投書の主は63歳のご婦人、奇しくも私と同年だ。
彼女は、今年の初めに「毎日、ハガキを一枚書く」と決めた、という。少し過酷かと思ったらしいがとにかく始めたのである。相手によってハガキ絵にしたり手紙にしたり、時にはついつい2.3枚書くときも。そうやって9ヶ月が過ぎて、近頃は習慣になり楽しくなった、と綴る。
ある日、幼なじみの友人から突然の電話、その友は交通事故で主人を亡くしたばかりだったとかで、彼女からのハガキにとても励まされたと何度も礼を言い、「元気が出たよ」とも言ってくれた、そんなこともあったという。
ひさかたの思わぬ音信に触れた懐かしの人たちから、さぞさまざまな反応が返ってきたことだろう、と思わず此方の想像も膨らむ。
「これからもできる限り続けよう。それが私の『元気のもと』であるのだから。」と小文を締め括る彼女は、きっと毎日がこれまでになく充実し、気力に満ちていよう。そのことが手に取るように判る気がする。

ひとり黙々と自身に向かって日記を綴るのではなく、知己の相手ひとり一人に一枚々々ハガキを書いていくというこのコミュニケーション行為は、60余年のこれまでの彼女の過去いっさいを眺望しつつ、現在進行形として日々の歓びを新たに紡いでいくものだろう。これまでの彼女の来し方がどんなものであったか、順風満帆のものであったか、逆境に抗いつつ厳しい現実のなかで懸命に生きてきたものか、そんなことは知る由もないが、いま彼女はこの行為を見出だし、それを日々課していることで、これまでにない爽やかな幸福感を味わっているにちがいない、と私には思える。
彼女は自身の創意と日々の積み重ねで、自分自身を幸福感で満たす術を獲たのだ。一見なんでもないささやかなことのようだが、この発見の意味は大きく深い、と心動かされた投書であった。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−130>
 ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に霜置きまよふ床の月影  藤原定家

新古今集、秋下、百首奉りし時。
邦雄曰く、千五百番歌合・秋四、本歌が人麿の「足引きの山鳥の尾の」であることなど遙かに霞み去るくらい面目を一新し、凄艶の趣きすら添う。赤銅色に輝く山鳥の尾に雲母状の白霜が降り紛い、しかも月光が煌めく。必ず一羽ずつ谷を隔てて寝る慣いの山鳥の、寝そびれて尾を振る様をも思い描かせようとしたか。39歳の作者の聳え立つ美学の一つの証、と。


 散りつもる紅葉に橋はうづもれて跡絶えはつる秋のふるさと  土御門院

後撰集、秋下、題知らず。
邦雄曰く、王朝和歌の紅葉は、綾錦、唐錦と錦盡しで、現代人の眼からは曲のないことだが、安土桃山のゴブラン織同様、絢爛たる幻を描き出すものだったろう。この輝き渡る紅葉の酣の季節を見ながら、今更改めて、「秋か」と疑う要も謂れもないと、理の当然の反語表現に、美を強調する。これも古歌のめでたさの一つ、様式に似た美の一典型であろう、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。