空見えて影も隠れぬふるさとは‥‥

Jun_nao_01

−表象の森− 女性の地位

近代化の明治期より封建制の江戸の社会のほうが女性の地位はむしろ高かった、と。
そんな一面があったということを宮本常一は「『日本奥地紀行』を読む」のなかでごく分かり易く説いてくれる。
戦後に改められた現行の戸籍制度ではなく、明治の民法に基づいたそれが「家」を中心にした大家族制だったことはだれでも承知していようが、その記載形式の有り様は、戸主を筆頭に、その次ぎにくるのが戸主の父母、そして戸主からみた叔父や叔母たちが並んで、やっと戸主の妻となり、さらには彼らの子どもらが記載されることになる。
ところが、檀家制度に乗っかった江戸の宗門人別帳においては、戸主を中心にした大家族制にはちがいないが、戸主の次にその妻が記載され、戸主−その嫁−子どもたちときて最後に隠居した父母がくるのが定法であったというのだ。

あくまで戸籍の形式上のことではあるが、女性の地位は江戸から明治へと時代の変転のなかで却って貶められている。
将軍と藩侯の二重支配のなか、主君と父母への忠孝を強いられまことに窮屈であったろう武士たちの社会ではいざ知らず、百姓・町人の庶民のなかでは宗門人別帳が示すように存外女性の地位が高かったといえそうである。それが明治の近代化は国民みな斉しく天皇主権の臣民となり富国強兵をめざしたからか、また維新を成した下級武士たちが時の元勲となり、彼らの生きてきた武家社会の遺制がその法制化に表れたか、いずれにせよ庶民における女性の地位は明治の近代化になってなべて貶められたのである。

こうしてみると男尊女卑という遺制がこの国の民のすべてにおしなべてひろがるのは明治の近代化においてこそだと言えそうである。
考えてみれば古代であれ中世の王朝社会であれ、それほど男尊女卑の風潮が強かったとは思えない。武家の棟梁たちが登場してきて体制の主役となってくる鎌倉・室町でさえ決定的なほどではなかっただろう。鎖国体制のなかで260年の平安をみた江戸の、それも一握りの支配階級たる武家の社会でのみこそ「主」と「家」を墨守するため儒教を利用し、男尊女卑化へより傾斜していったものとみえる。
これを明治の近代化は、国民のすべてへと拡大生産してしまった。この頃の近代化の裏面は絶対主義化でもあったのだから、当然といえば当然の話だが。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−131>
 空見えて影も隠れぬふるさとはもみぢ葉さへぞ止らざりける  中務

中務集、荒れたる宿の紅葉、家のうちに散り入りたるところ。
邦雄曰く、第三句の「ふるさと」は、詞書に従うならあばら屋となり果てた家そのものであろう。屏風絵に似た設定だが、望郷歌ながらに、王朝歌特有の流露感がある。伊勢の娘としての、類ない詩才が中務集には満ち溢れている。哀傷歌としての紅葉、「秋、ものへいく人に」の「風よりも手向けに散らせもみぢ葉も秋の別れは君にやはあらぬ」も心に響く、と。


 松風の音だに秋はさびしきに衣うつなり玉川の里  源俊頼

千載集、秋下、堀河院の御時百首の歌奉りける時、擣衣の心を。
邦雄曰く、松風と擣衣の二重奏、その最弱音の強さ。強調は四句切れの爽やかな響きが、あたかも槌音のように聞こえ、有るか無きかの間を置いて歌枕が現れる。六玉川の中、調布玉川が擣衣とは言外の懸詞となって面白い。井手の玉川に配するのは必ず山吹の花。今一首、家集に見える「秋風の音につけてぞ打ちまさる衣は萩の上葉ならねど」も巧みな擣衣歌、と。


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