影をだに見せず紅葉は散りにけり‥‥

Db070509t087

−表象の森− 「KASANE ?-襲-」構想メモ

京都 ALTI BUYOH FESTIVAL 2008への出演作品のために、とりあえずの。

春ならば桜萌黄や裏山吹など、秋ならば萩重や女郎花など、襲(かさね)の色はこの国特有の美学だが、その美意識は蕉風俳諧の即妙の詞芸にも通じていよう。
このTrioによるDance Performanceは、三者の動きの、その絶えざる変容と重畳がとりどりの襲となって、森羅万象、襲の色の綴れ織りとも化そう。


ギリシア劇が三人目の登場人物(俳優)を獲てはじめて世界の実相を映すまさに演劇として成立したように、自と他に、もうひとりの他者が現前することはこの世界を表象しうる根源的な要件となる。ならばこそ芭蕉連句も、稀に二者で成ることもあったがこれは例外的で、三者以上で巻くことを本旨としたのだろう。舞踊における連句的宇宙をめざすわれわれのImprovisation Danceもまた三人目の登場人物(Dancer)を獲ることは必須の要件であった。
襲(かさね)の色もAとBとの対照で成り立つかのようにみえるが、そこではAでもなくBでもない異なるC群、無数の他者の存在を前提とも背景ともしている。すなわちもうひとりの他者Cは有限個でありつつ無限の他者ともなりうるのだ。そこにわれわれ人間世界の秘密がある。われわれは森羅万象の世界へと旅立ち、宇宙の曼荼羅へとも飛翔しうる。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋−133>
 影をだに見せず紅葉は散りにけり水底にさへ波風や吹く  凡河内躬恆

躬恆集、上、平中将の家の歌合に、初の秋。
邦雄曰く、躬恆散紅葉の秀作が多い。「風に散る秋のもみぢ葉後つひに瀧の水こそ落としはてつれ」「水の面の唐紅になるままに秋にもあへず落つるもみぢ葉」等、いずれもねんごろな詠風だが、「水底にさへ」の幻想の鋭さと深みは格別だ。花散るさまを夢に見ると歌った作者ならではの発想である。一首の終った時初めて水中の紅葉が眼に浮かぶようだ、と。


 秋もはや末野の浅茅すゑつひに霜に朽ちなむ露のさむけさ  尭孝

慕風愚吟集、応永二十八年五月。
邦雄曰く、同義語の連綿重複によって、秋も終りの侘しさをいやが上にも強調しようとする手法、短調の暗澹たる悲歌を聴く感あり。歌僧頓阿曾孫にあたり二条派歌人の代表と目されていた尭孝の個性がよく覗える。「暮秋」題の一首「誰が方に待つとし聞かぬ秋もはや因幡の嶺の雲ぞしぐるる」も、歌枕をさりげなく生かしており、侘しさの極致、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。