思ひつつ夢にぞ見つる桜花‥‥

非線形科学 (集英社新書 408G)

非線形科学 (集英社新書 408G)

−表象の森− 文系脳の非線形科学 №1

11月1日、霜降、紅葉蔦黄ばむ候、愈々今年もあと2ヶ月となった。
先日記したように「非線形科学」を読みおえ、混濁した頭を抱えつつなんとか理解の歩を進めたいと悪銭苦闘しているのだが、なかなかに点と点が結ばれて線へとはならないものである。
これまで科学的な知見に対し、どれほど直感的かつ好い加減に接してきたか、たんなる言語遊戯にすぎなかったのではないかと悔恨しきりである。
だが、このたびはこのままやり過ごすわけにはいかぬ。
あくまでも私なりにではあるが、本書をほぼ理解する必要があると、そんな衝動が、熱が身内を貫いている。
おそらく、これらの理解は、私がずっと拘ってきた身体表現のありように、方法論的な明証さを与えるものとなるはずだ、とそう思うからである。
遅々とした歩みだとしても、ひとまず歩き出さねばならない。


<フィードバックシステム>
栄養物の入った容器のなかで増殖するバクテリアは、バクテリアの量が少なく栄養が充分に豊富なあいだはどんどん増殖するが、その限りにおいて増殖の速さはバクテリアの総量に比例するという線形的な法則が成り立っているかとみえる。
しかし、容器内の栄養物が枯渇してくると、この比例関係は成り立たなくなり、増殖は頭打ちとなる。この場合、増殖の進行そのものが増殖を押しとどめる原因となるという、自動調節機構が働いていると考えられるが、この機能をフィードバックといい、事態の進行がその進行そのものを妨げるように働くことを、負のフィードバック=ネガティヴ・フィードバックといい、
その逆に、栄養物が枯渇するまでバクテリアの自己増殖がどんどん促進される、その機能を正のフィードバック=ポジティヴ・フィードバックという。
このように生化学反応における自己増殖や自己組織化にはフィードバックシステムが欠かせない。
生物は熱力学の第二法則に反して、エントロピーの高い状態を保ち続ける物質であり、そのためには、動物の場合の化学エネルギーであれ植物の場合の光エネルギーであれ、たえずエネルギーを必要とする。これらのエネルギーを体内に取り込んでは捨てるという代謝作用が分子的に組みあげられた複合体が生物である。
細胞内ではこれら正と負の2つのフィードバックシステムはさまざまな場面で現れ、細胞の自己組織化をコントロールしている。ネガティブ・フィードバックは代謝反応の制御や細胞増殖の制御に利用され、ポジティブ・フィードバックは情報伝達と応答反応に利用されている。遺伝子発現の制御、複製や細胞分裂など複雑な生命現象では双方が同時的に働き、巧妙な仕組みが成立している。
一般にポジティヴ・フィードバックが働く場合は、それを抑制するネガティブ・フィードバックが備わっていないと破滅的な結果にいたる。正と負の双方のフィードバックをあわせもつ複合的な非線形システムは、自然界において広く存在する。

元来フィードバックとはサイバネティクスにおける用語であるが、この考え方は人間社会でも多く取り入れられている。
分かり易い例を引けば、個人レベルにおける「反省」ということ。反省とは経験から学んだ大切なことを文章にして、他人に伝えることができる形にすることだが、通常、反省はポジティブではなく、ネガティブな経験から教訓を導き出すように使われ、自らの失敗や不十分さを謙虚に認めることや、同じ過ちを繰り返さないために、その原因を分析し明らかにする。
また、さまざまな事象や問題に対する評価や批判は、社会のフィードバック制御であるといえる。
行政の行動に対しては選挙やマスコミによる世論調査、裁判、NGOの活動などがいろいろな評価をする。経済活動に対しては価格や市場、株価などが結果的にポジティブ・ネガティブに作用する。これらは外部の独立した仕組みとしてのフィードバックシステムといえるだろう。実際には、あらゆる組織というものはそれぞれにおいてなんらかのフィードバック・システムを内蔵してその安定を保とうとしているものである。それぞれ固有の歯止めとしてのフィードバックシステムが働かなければ組織がうまく機能しないというわけである。

だが、これら人間社会にもさまざまにみられるフィードバック・システムには、制御の「遅れ」という難題がつねに立ちはだかってもいるともいえる。
近頃の、NOVAの破綻騒動にしても然り、C型肝炎の薬害問題然りで、行政の監視システムや法制上の綻びなどさまざまに複合的な原因が云々されようが、これらすべてフィードバックの制御システムの「遅れ」の問題といえるわけである。
NOVAや薬害問題のごとき大きな事件にかぎらず、いわば新聞紙面やTV報道に日々登場するあらゆる事件や事象のうちに、この制御の「遅れ」という問題が潜んでいるのだ。
  −参照−蔵本由紀非線形科学」、メルマガ「森羅万象と百家万説」


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−74>
 思ひつつ夢にぞ見つる桜花春は寝覚のなかからましかば  藤原元真

拾遺集、春上、題知らず。
邦雄曰く、歌仙家集中の元真集には、この勅撰入集作一首だけが見えない。桜花詠は家集中にも秀逸が多く、この歌も現実の花よりは夢の中の憧憬の桜、その幻影を愛し、目覚めのないことを冀うなど、独自の味わいがある。第一・二句の思ひ寝の夢を「思夢」という。後撰集時代の代表的な歌人ではあるが、一首も採られず、入集はすべて、後拾遺集以下、と。


 かねてよりなほあらましにいとふかな花待つ峯を過ぐる春風  守覚法親王

北院御室御集、春、山花未綻。
邦雄曰く、予想の幻の中に、峯の山桜はまだふふみそめたばかりの花を、荒々しく過ぎてゆく風に虐げられ、傷つく。花に盡す心はここまで深まり、先回りをし、その終の姿まで思い描いて厭い悲しむ。守覚は仁和寺の総法務で、世に北院御室と称され、仁和寺宮五十首を催し、俊成・定家・俊恵・重家を始め、新古今成立前後の歌人たちのよき後援者、と。


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