夕暮や嵐に花は飛ぶ鳥の‥‥

Alti200422

−表象の森− アイヌ義経神社

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」には
アイヌの宗教的観念ほど、漠然として、まとまりのないものはないであろう。丘の上の神社は日本風の建築で、義経を祀ったものであるが、これを除けば、彼らには神社もないし僧侶もいなければ犠牲を捧げることもなく礼拝することもない。」という件があるという。
宮本常一はこれに関して、「義経記」が400年ばかり前にどういう経緯でかアイヌの世界へ入っていって、ここでユーカラと同じように語り継がれてきた、と記す。
衣川で討たれたはずの義経津軽海峡を渡って蝦夷へ逃げのびたという義経伝説がいつしかアイヌにまで流布し、古来のアニミズム的な動物たちの神々とともに、いわば勧請神として祀られてきたというわけだ。
バードのいう丘の上の神社とは、日高支庁平取町にある義経神社のことだが、この創建は寛政11(1799)年、近藤重蔵によるもので、幕府の命で蝦夷探検にきた際、アイヌに流布する義経伝説を知り、江戸の仏師に義経像を彫らせ、これを祀ったと社伝はいう。
この社伝が事実だとすれば、江戸幕府による蝦夷地開拓のためのアイヌへの露骨な懐柔策、煎じ詰めれば侵略策というべきものだろう。時しも北東アジアを南下する帝政ロシアの脅威もあり、北海道における領土権を主張するためには、元来徳川氏は源氏の末裔を称することからして、義経伝説の流布はまことに好都合、そこでアイヌに語り伝えられる英雄神オキクルミ義経を擬えさせ、これを祀らせたというのが真相だろう。


室町時代御伽草子にはすでに、北方の各地を遍歴する義経の冒険譚がみられるが、この時点においては義経が奥州を逃れたという記述はまだないが、江戸の寛文10(1670)年に林羅山などによって編纂された「続本朝通鑑」では、「俗伝又曰。衣河之役義経不死逃到蝦夷島存其遺種」と記される。
その先には享保2(1717)年「鎌倉実記」に異伝として義経の中国大陸渡航説があらわれ、後に「義経=成吉思汗」説までまことしやかに囁かれ出す。
義経=成吉思汗」の伝説は、大正13(1924)年、小谷部全一郎著「成吉思汗ハ源義経也」によって愈々決定づけられ、明治の日清戦争以後の近代日本の帝国主義下、大挙して大陸へと向かう日本人たちを鼓舞してやまなかったとされる。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−76>
 夕暮や嵐に花は飛ぶ鳥のあすかみゆきのあとのふるさと  伏見院

伏見院御集、故郷落花。
邦雄曰く、嵐に花は飛ぶ、飛ぶ鳥の「飛鳥」、明日香御幸、明日か深雪の後の降る、縁語と懸詞が錯綜するのみならず、それが現実の事物や現象と結びつき、立体的な色と香と響を持つからくりは、歎息が漏れるくらい見事だ。また「恨みじなよその花をば隔つとも桜にこもる春のふるさと」もあり、これも、殊に下句の巧妙な修辞が、新古今調を超えて面白い、と。


 山桜咲き初めしよりひさかたの雲居に見ゆる滝の白糸  源俊頼

金葉集、春、宇治前太政大臣の家の歌合に桜をよめる。
邦雄曰く、満山花となる季節には、瀧が白雲の間から落ちてくるようにも見えるという。もともとあった滝ながら、桜故に興趣一入。上下五句を纏綿と連ねて句切れが全くない。描かれた風光と調べが表裏一体をなし、妙なる一首となっためでたい例であろう。前関白師実主催の高陽院殿七番歌合の「桜」白河法皇の命により金葉集を選進した。源経信の子、と。


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