あさみどりいとよりかけて白露を‥‥

Alti200635

−世間虚仮− 小沢一郎カタルシス

民主党代表の辞意撤回をした小沢一郎の記者会見、そのTV中継のほぼ全容を見た。
こんな小沢一郎を見たことはない、と私には思われた。
一問一答、記者団の質問に、神妙な面持ちで訥々と、されど真摯に率直に語りつづける姿勢は、嘗て彼に纏い続けた既存のイメージを払拭させるに充分なもの、と余人はいざ知らず私にはそう映った。
政界の寝業師といわれ、百戦錬磨の政界の大立て者、65歳の小沢一郎が、初体験ともいえるカタルシス効果を経て、いま此処に全身をマスコミの前に曝し続けている、それが彼の記者会見を見ての私の第一感だ。

余人を交えぬ福田首相との党首会談で、あり得べきもないはずの自・民大連立へと、誰かに嵌められたか否かはともかく、思わず前のめりに走りすぎてしまった小沢自らの目を覆うばかりの失態に、代表辞任の表明をしてからのここ二、三日の彼は、よほど自身の不甲斐なさやら判断の甘さに自らを責めるばかりであったろう。直情型でもあろう気質を思えば、自身を鞭打つしかない情けなさやら悔しさに、独り吼えるほどに涙したかもしれぬ。
そんな醜態を曝したはてに、そのあと訪れる静かな虚脱感のなかで、裸形の自分自身を見出だすのだ。

かようなカタルシスを経た小沢は、こんどこそ少なからず変身を遂げるにちがいない。
雨降って地固まるなど甘いと、マスコミは民主党のダメージを喧伝してやまないが、私に映ったとおりの変身・小沢ならば、早晩それも杞憂にすぎないものとなるだろう、と敢えて言挙げしておく。
政治家小沢一郎にも、民主党にも、格別肩入れしなければならない義理なぞなにもないけれど、次の衆院解散・選挙までは、小沢を軸に注視の要ありだ。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−77>
 あさみどりいとよりかけて白露を玉にもぬける春の柳か  遍昭

古今集、春上、西大寺のほとりの柳をよめる。
邦雄曰く、和漢朗詠集にも「青絲繰出陶門柳」などが見え、遍昭はこの糸に露の真珠をつないで、新趣の美を創った。遍昭集ではこの歌を二首目に置き、冒頭は「花の色は霞みにこめて見えずとも香をだにぬすめ春の山風」。古今集序に「歌のさまは得たれどもまこと少なし。絵にかける女を見て徒らに心をうごかすがごとし」の評あり。貫之自身はいかが、と。


 暮れぬとてながめも捨てず桜花うつろふ山に出づる月影  藤原隆祐

生没年未詳、従二位藤原家隆の嫡男、土御門院小宰相は妹。隠岐配流後の後鳥羽院に親近し、歌壇の主流から外れていたため、不遇の身をかこった。勅撰入集41首。
邦雄曰く、花は昼のみかは、月の出の後も一入ゆかしい眺め、それも咲き初めより、やや色の移ろう頃の味わいは格別だ。隆祐は為家の父定家と並び称された家隆の子。隆祐朝臣集にみる「さらにまた契りし月もしのばれず稀なる夢の有明の空」は別趣の作として印象的であり、父の持ち味を伝える。父の名を汚さず、また超えず、歌人としては不遇であった、と。


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