香を尋めて行く空もなし‥‥

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−表象の森− 梨壺の五人

下記紹介の清少納言の父清原元輔の歌の塚本邦雄解説に「梨壺の五人」と耳慣れぬ謂いがある。
平安京の頃、天暦の治(950年頃)と称された村上天皇の代、御所七殿五舎の一の昭陽舎に和歌所が新たに置かれた。その寄人は大中臣能宣、源順、清原元輔坂上望城、紀時文の五人だったが、この昭陽舎には梨の木が植えられていたことから、彼ら和歌寄人を「梨壺の五人」と呼ぶようになったといわれる。
この五人を中心にして万葉集の訓詁と勅撰集の選進編纂が行われ、藤原伊尹別当として統括、古今集成立から40年余を経て「後撰集」が奏覧された。
ここで目を惹くのは、前の古今集や後世の勅撰集と異なり、選者の役目を負った寄人ら梨壺の五人の歌は一切採られていないことである。古今時代の紀貫之や伊勢など先代の歌人が中心といえばそうともいえるが、当代の歌人も少なからずあり、身分の高い権門たちの歌あるいは当代女流の中務や右近などの歌が入集している。
彼ら五人に秀歌がなかったわけではあるまい。げんに藤原公任選といわれる拾遺集(1006年頃成立)には大中臣能宣59首、清原元輔48首など多く入集している。
このあたりの事情には、新たに設けられた和歌所に寄人として任じられた五人の選定は、歌人としてよりもむしろ学者としての評価に重きが置かれていたのであろうし、能宣が従五以下、源順や元輔が従五位という身分も関わって、あくまで選考の役にのみ与る黒衣役として期待されたものとみえ、なお唐風の官僚制の残り香が窺えそうである。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−78>
 さだかにも行き過ぎめやはふるさとの桜見捨てて帰る魂  清原元輔

元輔集、ひんがしの院の桜を。
邦雄曰く、本によっては「三月ばかり院の桜折りに罷り侍りて」とある。東院は大内裏神祇官の一院で、神祇伯らの勤める場所。死者の精霊が、花盛りの桜を楽しむこともなく、黄泉へ行くさまを歌った。まことに稀少で特殊な主題であり「魂」の古典用例にも引用される作。清少納言の父としての見識と蘊蓄がこの一首にも察せられる。梨壺の五人の一人、と。


 香を尋(ト)めて行く空もなし磯近き夜の泊りの花の衣手  貞敦親王

貞敦親王御詠、恋中花。 長享2(1488)年−元亀3(1572)年。戦国の世、伏見宮邦高親王の第一王子。
邦雄曰く、旅の道すがら見る桜、それね海浜の桜は珍しい。花の衣手は華やかな衣裳であり、背後には勿論満開の桜が霞んでいる。上句の甘美な表現は絶妙。同じ題の「散れば咲くところ変へても馴れきつる花の旅寝の幾日ともなき」も佳き調べ。歌は三条西実隆に学び、その御詠は秀作に富む、と。


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