花のうへはなほ色添ひて‥‥

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)


―表象の森― マルチチュード

アントニオ・ネグリマイケル・ハートによる「帝国」の最終章は「帝国に抗するマルチチュード」と題されていた。
グローバル化した世界の新秩序たる<帝国>に対抗しうるデモクラシー運動を根底的に捉えるために、彼らが導入したのは17世紀の哲学者スピノザに由来する「マルチチュード」という概念であった。
ネグリとハートのコンビによる「帝国」に続く書「マルチチュード」はNHKブックスの上下本として05年10月に出版され、私の書棚にも2年近く積まれたままにあったのだが、このほど走り読みながら上巻をやっと読了。


マルチチュードとは<多>なるものである。
人民・大衆・労働者階級といった社会的主体を表すその他の概念から区別されなければならない。
人民=Peopleは、伝統的に統一的な概念として構成されてきたものである。人々の集まりはあらゆる種類の差違を特徴とするが、人民という概念はそうした多様性を統一性へと縮減し、人々の集まりを単一の同一性とみなす。
これとは対照的に、マルチチュードは、単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差違から成る。その差異は、異なる文化・人種・民族性・ジェンダー性的指向性、異なる労働形態、異なる生活様式、異なる世界観、異なる欲望など多岐にわたる。マルチチュードとは、これらすべての特異な差違から成る多数多様性にほかならない。
大衆=Massという概念もまた、単一の同一性に縮減できないという点で人民とは対照をなす。たしかに大衆はあらゆるタイプや種類から成るものだが、互に異なる社会的主体が大衆を構成するという言い方は本来すべきではない。大衆の本質は差違の欠如にこそあるのだから。すべての差違は大衆のなかで覆い隠され、かき消されてしまう。大衆が一斉に動くことができるのは、彼らが均一的で識別不可能な塊となっているからにすぎない。これに対してマルチチュードでは、さまざまな社会的差違はそのまま差違として存在しつづける―鮮やかな色彩はそのままで。したがってマルチチュードという概念が提起する仮題は、いかにして社会的な多数多様性が、内的に異なるものでありながら、互にコミュニケートしつつともに行動することができるのか、ということである。


―今月の購入本−
広河隆一編集「DAYS JAPAN -食べ物と人間-2007/11」ディズジャパン
宮本常一山本周五郎他監修「日本残酷物語-5-近代の暗黒」平凡社ライブラリー
加藤郁乎「江戸俳諧歳時記-下-」平凡社ライブラリー
西原克成「内蔵が生みだす心」NHKブックス
氏家幹人「サムライとヤクザ -「男」の来た道」ちくま新書
沖浦和光「日本民衆文化の原郷 -被差別部落の民族と芸能」文春文庫
池内了「科学を読む愉しみ -現代科学を知るためのブックガイド」洋泉社新書
他、ARTISTS JAPAN38-梅原龍三郎/39-速水御舟/40-鈴木春信/41-川合玉堂/42-池大雅/43-横山操

―図書館からの借本―
小田実「大阪シンフォニー」中央公論社
小田実「玉砕/Gyokysai」中央公論社
松下貢編「非線形非平衡現象の数理-2- 生物にみられるパターンとその起源」東京大学出版会


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−79>
 あはれしばしこの時過ぎてながめばや花の軒端のにほふ曙  藤原為子

玉葉集、春下、曙の花を。
邦雄曰く、桜花さまざまの中に、これは軒近く咲く眺め、「この時過ぎて」の躊躇に、曰く言い難い風趣と、屈折した余情が見え、それもまた玉葉時代の歌風の一典型だ。玉葉集選者京極為兼の姉、伏見院・永福門院の女房として、殊に新風樹立に精彩を加えた歌人。藤大納言典侍歌集にも「はなもいざただうち霞む遠山の夕べに盡す春の眺めを」がある、と。


 花のうへはなほ色添ひて夕暮の梢の空ぞふかく霞める  伏見院

伏見院御集、春歌中に。
邦雄曰く、桜を眺めながら花を歌わず、梢を歌おうとして実はその彼方に霞む夕空を、まことに瀟洒に、淡々と描く。交響楽中に、一瞬諸楽器が音を絶ち、木管楽器のピアニシモを聴かせる、あの張り満ちた弱の強さを感じる。「四方山に白雲満てり昨日今日花の盛りに匂ふなるべし」も同題中の一首、鋭い二句切れが見事に効いて、二首は佳き照応をなす、と。


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