春はなほわれにて知りぬ‥‥

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−世間虚仮− SUDOKU

このところ暇つぶしにSUDOKU=数独に嵌っていた。
もう20年も昔のことだが、ふとしたことからやはり暇つぶしに囲碁を覚えてみようと思い立ち、いくつかの本を買い込んでは我流で手習いをしたことがあるが、これはあまりに奥が深すぎるというか、19×19の盤面上に数限りないほどの手を読むことなど実践も積まない独り遊びではとても上達するものではない。
駆け出しの素人に何度か実践の相手をしてくれた人も居るにはいたが勿論歯が立つ訳もない。そうこうしているうちに暇を持て余し気味だった身分にも大きな変化が起き、やたらと忙しくなってしまって、いつしかその独り遊びも沙汰止みとなってしまい、久しく今日まで遠のいたままだ。
賭け事やゲームなどには向かない気質や性向というものはあるだろうし、自分はそういう類なのだと決めつけて何かに凝ったり嵌ったりなどはまったくといっていいほど縁のない人生だ。だって昔なら河原乞食と他人からは白い眼で見られてきた芝居や踊りの道楽に預けたきたこの身だもの、日々のリズムも思考の関心もその道楽事がどこまでも中心にめぐっていては、たとえ暇つぶしとて凝り型になることはまずあり得ない。
そんな我が身がこの2ヶ月近く、新聞で見かけた数独にひょいと手を出してみたのがきっかけで嵌ってしまったのは、別なことからくるストレスが些か溜まっていた所為なのかもしれない。
お誂え向きにネットでそのものズバリ「SUDOKU数度句」なる無料サイトを見つけたものだから、これがいけなかった。難易度も初級から中・上、さらには上+まであって問題量も豊富で至れり尽くせり。単純なゲームだがやってみると難易度があがると意外に苦闘する。苦闘するほどに意地ともなる。まあ悪循環のようなものでとうとう凝り型になってしまった次第。
こんなことを臆面もなく記しているのは、大概やり尽くしたようだし、そろそろ退き時と見えるからなのだが‥‥。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−80>
 春はなほわれにて知りぬ花ざかり心のどけき人はあらじな  壬生忠岑

拾遺集、春、平貞文が家の歌合に。
邦雄曰く、拾遺集は忠岑の立春歌を巻首に置く。この桜花詠は、古今・業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば」と同趣の、逆説的な頌歌である。心のどかなるべき春を、花に憧れ、思い煩い、却って愉しまぬ。他ならぬ自らが思い知った、世の人も同じかろうと、殊更に深刻な詠歌を試み、春花の歓びを強調する。類想はあるが意表を衝く歌、と。


 見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけり  素性

古今集、春上、花ざかりに京を見やりてよめる。
邦雄曰く、紅葉を秋の錦繍に見立てるのは最早常道、和漢朗詠集の「花飛んで錦の如し幾許の濃粧ぞ」に見るように、桃李も錦、柳桜もまたその光輝と精彩を誇ると感じたのだ。新しい美の発見につながる。詞書の通り「京を見やりて」、即ち都から離れて、高見から見渡し見下ろす、パノラミックな大景である点も、この歌のめでたさ。作者は遍昭在俗時代の子、と。


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