我ならで見し世の春の人ぞなき‥‥

Db070509rehea205

−表象の森− 五色の賤

「汚れとは、絶対に唯一かつ孤絶した事象ではあり得ない。つまり汚れのあるところには必ず体系が存在するのだ。秩序が不適当な要素の拒否を意味するかぎりにおいて、汚れとは事物の体系的秩序づけと分類との副産物なのである。」−メアリ・ダグラス「汚穢と禁忌」より
この短い文は鷲田清一「感覚の幽い風景」からの孫引きだが、ヒトが形成する社会はどんな社会であれ穢れ者−賤民を制度化してきた歴史を有する。

この国の場合、隋・唐に倣い律令制を導入した際に、良賤の区別を明確に制度化した。陵戸・官戸・家人・官奴婢(クヌヒ)・私奴婢からなる、いわゆる「五色の賤」と呼ばれたものだ。
彼らは衣服の色分けによって区別されたためこの呼称が生まれた。
良民とは租庸調など納税や労役の義務を負う者であり、賤民はこれらの義務からは外されたが、あくまでも主筋に従属する身分であり、陵戸は天皇や皇族たちの陵墓を守衛する者たち、官戸や官奴婢は官田の耕作に使役される者たち、家人や私奴婢は良民の私家に従事する者たちで、その生業は固定され、とりわけ官奴婢や私奴婢は主筋の意志如何で売買や質入れされるなど奴隷的身分そのものであった。

大化の改新以来の律令制によるこの賤民制度も、名田・名主などが登場してくる班田制から荘園制への移行で、律令制の実質的な崩壊から有名無実化してくる。公式には延喜7(907)年に奴婢制度が廃止となるが、遡って律令制と並行しつつ鎮護国家の拠り所として移入された仏教がひろく民心に浸透していくにつけ、殺生戒などによる穢れの観念から賤民視されるさまざまな生業の者たちが集団化・固定化していく。
延喜14(914)年に上奏された三善清行の「意見封事十二箇条」には「今天下の民三分の二は禿首の徒なり」とあるほどに、屠者・濫僧(非人法師)らが都では鴨川などの河原付近にあふれ、河原者と賤視され、やがて穢多と蔑称されていくようになる。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春−85>
 我ならで見し世の春の人ぞなきわきても匂へ雲の上の花  後鳥羽院

古今集、雑上、建暦二年二月、南殿の花を忍びて御覧ぜらるとて。
邦雄曰く、詩歌の帝32歳の壮年、千五百番歌合から十年後の酣の春。誇りに満ちた初句もさることながら、第二句の「見し世の春」に込めた思いは深い。昂然として華麗、しかもかすかな苦みを帯びた調べは院ならではの感あり。続古今選者の炯眼を慶ぼう。百人一首歌として聞こえた「人も愛し人も恨めし」は、この年の冬12月2日の作であった、と。


 山もとの鳥のこゑごゑ明けそめて花もむらむら色ぞ見えゆく  永福門院

玉葉集、春下、曙の花を。
邦雄曰く、暁闇の、四方の景色もさだかならぬ頃から、刻一刻明るみ、まず山麓の小鳥の囀り、やがて仄白い桜があそこに一群、ここに一群と顕ちそめる。第四句「むらむら」は玉葉時代新風の、癖のある、面白い副司の用法。聴覚に訴えたところなど心憎く、後朝の情緒など微塵も含まぬのも爽やかだ。溥明・微光を歌わせると新古今歌人を凌ぐ、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。