綾ひとへ居湯に志賀の花漉て

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<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−35

   けふはいもとのまゆかきにゆき  
  綾ひとへ居湯に志賀の花漉て   杜国

綾ひとへ居湯-おりゆ-に志賀の花漉て-こして-

次男曰く、名残ノ折の花の定座、「匂の花」とも呼ぶ。
居り湯は釜で沸かした湯を、浴槽に樋で引きまたは汲移して遣うもので、下り湯とも云う。江戸時代に習俗化された行水は、さしずめ居り湯の一形態と見なせる。

句は「志賀の花漉て」と云っているが、志賀の宮-大津京-があったのは、天智天皇6年から弘文天皇元年までのの5年間で、壬申の乱によって廃都と化した。人麿や高市古人などの歌にも偲ばれ、後世、俊成がよみ人しらずとして「千載集」に選入した平忠度の歌、故郷花といへる心をよみ侍りける、「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな」-「平家物語-忠度都落」に話がある-によって、巷間さらに知られるようになった。云うなれば、志賀は旧都の代名詞のようなものである。

「志賀の花漉て」が事実であろう筈きはない、と気付くと俳言の趣向が見えてくる。居り湯には良水を遣うわけではないから、わかし湯を舟に移す前に塵を漉すが、「花」という季には「花の塵-花屑-」という遣方がある。花の座なら、只の塵も「花」に見える、という思付は俳になる。そしていま一つ、「志賀」と冠したのには、先に芭蕉が「秋水一斗もりつくす夜ぞ」と作ったからに相違ない。唐から日本に漏刻の法が伝えられた翌年、大津京は亡んだ。「志賀の花漉て」は、正客に対する、名残の花のみごとな挨拶だ。忠度の歌のことも、むろん、思い泛べていたろう。「綾ひとへ」は、いきなり読んでも何の用を暗示しているのかわからぬが、以下の部分が解ければ、湯帷子か漉布かのどちらからしいとわかる。前者と解しておく。そのほうが句にふくらみが出る。

はこびに即して云えば、妹が後宮に上ったのだと読んでもよいが、平凡な町家の姉妹でもよい。眉描きから戻り、肌着姿で簡単な行水を遣った、というごく日常的な暮しの一齣をたねに、夢はどのようにでも華麗に描ける。言葉の節々に染む女心が、かえってよく現れるだろう。空想裡の付に、人物や場所の特定は必要ではない。名残の花の座に及んで猶も謎めいた趣向を弄ぶなど、連句とは云えぬ。匂の花の座に典型的な「付」を以てした作りである。


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