こほりふみ行水のいなづま

Db070509t057

<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−02

  つゝみかねて月とり落とす霽かな  
   こほりふみ行水のいなづま   重五

ふみ行-ゆく-
次男曰く、連俳には「月の氷」という冬の月の傍題がある。和歌で「月の氷に・の」「氷れる月を・の」「月ぞ氷れる」「氷る月かげ・かな」などとして概ね「新古今」以後頻繁に遣われてきた。初見は「千五百番歌合」-建仁元(1201)年-に出詠された「松島や雄島が磯に寄る波の月の氷に千鳥鳴くなり」-俊成卿女-、「冬の夜はあまぎる雪に空冴えて雲の波路に氷る月かげ」-丹後-あたりか。

月と氷は寄合の詞だと知っていれば「こほりふみ行」は、前句と合せて時雨のひまにこぼれる月の光を踏んでゆくことで、まずこれは俳言だと気付く。取合せて、霽をしぐれと云うなら稲妻も空ではなく水にはしる、と前句に応じている。歩いてゆくと薄氷がそこに張っていて踏むと氷裂ができる、という実景が自ずと想像できるが、「こほりふみ行」も「水のいなづま」も、発句にいどまれて生まれるべくして生まれた工夫だと気付かなければこの付の面白みはない。単に景を描き加えて一章にしているわけではないのだ。第一、「こほり」を実と読めば「水」と差し合う無様さが気になる。因みに「月の氷」は、式目に水辺の用にあらずする。

諸注、「氷ニ月ノ移リヲ稲妻トミテ人間ノ身ノ上ハ薄氷ヲ踏ガ如シトナリ」-秘注-、「しぐれのいまだかはかぬ道の氷の上にちらちらと月影のうつるけしきを稲づまに比喩して、本句の余意をかかげたる脇也。いなづまとは無常転変の姿なり」-馬場錦江-、あるいは「人の薄氷を踏む行くに、氷破れ水迸りて、みしみしといふ響につれ、つゝつと氷の上を水の行くをば、氷踏み行く水の電光とは作れるなり」-露伴-、「前句とのひびき電光石火のはたらきありて、遊燕の飛滝をかすむるに似たり-樋口功-などと説くが、いずれも「霽」を見咎めた者はいない。むろん、「月の氷」に気付いた者などいない、と。


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