命婦の君より来なんどこす

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―表象の森― 定説を覆すlesser blain

別冊日経サイエンス「感覚と錯覚のミステリー -五感はなぜだまされる-」のなかの「小脳の知られざる役割」-J.M.バウアー/L.M.パーソンズ-の小論はかなり関心を惹くものだった。
「little」の二重比較級「lesser」-より劣った、より小さい-些か情けなくなるような語を冠せられた「lesser blain-小脳-」は、ヒトの後頭部、脳幹の上に、大脳半球を覆う皮膚の下に位置する脳組織で、大きさは野球のボールほど、劣ったちっぽけな脳と名づけられているにも拘わらず、これを平たく延ばしてみると、その表面積は、大脳の左右半球の片側に匹敵するほどの広さに匹敵する、というのにまず一驚。

小脳が運動を司るという仮説は19世紀半ば、複数の生理学者によって提唱された。小脳を取り除くと身体の動きの統御がうまくとれなくなることが判ったからだ。
しかし最近の研究から、それは過去の常識となりつつある。ここ15年間ほどの最近の研究では、小脳に損傷を負うと、言語や視覚・聴覚など五感にさまざまな障害が起きることが判ってきた。
最近では、小脳がワーキングメモリーや注意力、計画や予定の立案といった知的活動、情動の制御などと関係していることを示す研究が増えている、と著者らは曰う。

触覚刺激に対して小脳はとりわけ活動が活発化するらしい。
その活性化マップは、刺激を受けた体表の位置とその信号を受けとる脳の領域との空間的な位置関係が対応している大脳の場合とは異なって、バラバラに断片化された配置図となっている、という。
この事実に表れていることは、五感の知覚情報などに対し、小脳と大脳が互いに機能分化しているのではなく、階層的な構造を有している、ということになるのだろう。
どうやら小脳は、従来の定説から大きく逸脱して、触覚を中心に五感の知覚情報をコーディネートすることを担っているとみえる。

小論の末尾あたり、とりわけ私の関心を惹いた著者らの作業仮説を惹いておく。
運動機能の統合に冠する研究によると、小脳に損傷を受けた人は動きが鈍く単純になる。これし質の高い知覚情報が得られなくなったことに対処するための合理的な戦略だ。この考えをさらに敷衍すると、興味深いことに、小脳を完全に取り去るよりも、欠陥のある小脳が機能し続ける方が、より深刻な問題を引き起こすと考えられる。
感覚情報の制御機構を敢然失ったときは脳の他の組織が補えるが、不完全な制御機構が動いていると別の領域が質の悪い情報を使おうとする結果、機能障害が続くだろう。この種の影響によって、知覚情報にうまく応答できない自閉症のような疾病と小脳の関係を説明できるかもしれない。

些か怖くなるよう仮説だが、もしこれらのことがよくよく解明されれば、知的障害者への外科的治療などという行為も近未来起こり得ることになるのかもしれない。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−14

  しのぶまのわざとて雛を作り居る 

   命婦の君より来なんどこす   重吾

命婦-みょうぶ-

次男曰く、都も恋し、人も恋し、雛人形などこしらえて無聊を紛らしている昨今だ、と伝えてやったら、命婦の君が歌の代りに米を送ってよこした、と付ている。命婦は令制で五位以上の女官を云うが、ここは前の句を貴種流離、男-実方とは限らない-と見定めて、その位取りに持ち出した句材だろう。ある女房とでも読んでおけばよい。

前句は恋ではないが、それらしい仕掛はある。「米なんどこす」は、贈答ふうに、誘いを躱-かわ-し惚-とぼ-けて仕立てたところがみそで、作者重吾は雛人形作りを実の行為と見たとも虚と見たとも云っていないが、女の気を惹くために云い遣った「雛を作り居る」と読んだ方が問答の面白さを生む。同情の思案に困って米を贈ったと読んでもそれはそれで解釈にはなるが、例によって絵空事で暮しの足しに人形作りなどしている筈がない、と見抜いたうえでの米贈りならみごとな恋の冷ましになる。実方のほととぎすの歌の披露に始まり、その恋遊び上手は当座の話題になった筈だ。

「しのぶ間の業はあまたあらんに、雛を作るとある其職のやさしければ、そこを御所浪人と見て、ゆかりの命婦より助力せらるると附たるなり。此句の賞する所は、前句雛とあれば、誰とても春季を附べき所なるに、是は雑の句として次を附たる心の扱ひ甚だおもしろし」-升六-

春季を以て継がなかったのは、以下、花の座-裏十一句目-まで四句春-雛作りを春と見れば五句春-とせざるを得ぬ重くれを嫌ったからだろう。表も四句春である。
「職」であろうと手すさびであろうと、雛作りを雑と読むことに格別の違はない。
また、露伴、樋口功、穎原退蔵ら諸注いずれも前句の人を女と見て、まったくつまらぬ解釈をする、と。


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