まがきまで津浪の水にくづれ行

Kanikisuru_enku

―表象の森― 歓喜する円空」ならぬ、歓喜する梅原猛

否応もない呪縛からやっと解放され自由な時間が取り戻せた。
この間に図書館からの借本の返済期限を気づかずにやり過ごしてしまったのが一冊、慌てて返しに走る始末。
読みかけたままに打棄った本が2冊、これまた返済の期限が迫っているから、これまた走り読まねばなるまい。

それにしても梅原猛の「歓喜する円空」には彼一流の大仰な論理構築に些か食傷気味の幻滅感に襲われる。その語り口は嘗ての「隠された十字架」や「水底の歌」とさほど変わりはしないが、対象に肉迫する論理の積み重ねにおいて緻密さに欠けるように感じられて仕方がない。
本書における円空への梅原の過大に過ぎよう止揚ぶり、その構築の論理を図書新聞の書評がよく語り得ており、大家梅原古代学への追随ぶりと併せて、一読に値しようか。


「十二万体の異形の木彫仏をつくった円空とはいかなる僧だったのか。−略−
本書は、円空に関する伝承に着目しつつ先行の諸論を整理。一部これまでの虚像や錯誤を糺し、その謎多き生涯に鮮烈な眼光を当てる。絢爛と混沌の円空芸術の創造の源流が、土俗の内部のドラマとともに理路整然と説き明かされてゆくのである。
まず、著者の関心をよんだのは、円空白山信仰の修験者であり、「神仏習合の先駆けであり、それは日本宗教史において最も重要な問題」であるからであった。白山信仰創始者である泰澄は同時に木彫仏制作の 創始者であり、さらに造寺や架橋などで諸国を行脚した行基は、泰澄から木彫仏制作を学んでいる。ゆえに、円空は「神仏習合思想と木彫仏の制作」において、泰澄、行基の伝統の上に立つ。すなわち、著者にとっては、円空こそ「神仏習合思想の深い秘密を教える哲学者」なのである。
かくて、円空は「神仏像・絵画・和歌の三位一体」のものとして、総合的に解明されなければならないとする著者の慧眼が行間に熱く滲む。
その放浪の足取りは生まれ故郷の美濃を旅立ち、関東、東北、北海道を経て、飛騨や吉野に分け入り荒行をつづけ、一片の素木に彫る造仏に一切衆生の救い祈りを 籠めていった。著者はそれら奉納された造仏を訪ね、その制作年代の確定や作風の変遷などに厳密な考証を行い、流離の運命の諸行について独自の瞑想的洞察を馳せる。
大般若経」写本の見返しに貼られた百八十四枚を始めとした絵画に、円空における仏教思想の根幹を突き詰めようと精緻な論証を行う。そのために、絵を三カ月も四カ月もひたすら穴の開くほど眺め続けるのである。さらに、近年発見された千六百首の和歌の研究が必要であると取り組み、西行の歌より円空のほうが面白く、「雄大な世界観が脈打っている」と指摘。孤高の造仏聖に迫る著者は、滔々たる「梅原日本学」の山脈を基層に、旧に変らぬ息軒昂に満ちている。
それに本書の何よりの核心は、円空が思想的に一大転換をなしとげる美と文化の重層的な軌跡を明らかにしていることだろう。ここに、狂気と情熱に駆り立てられ、放浪をつづけねばならなかった苦行僧の真実とし て、新たに男盛りのエネルギッシュで無類にポジティブな相貌が、歴史の襞の燦然たる闇の中からくっきりと浮かび上がってくるのだ。
当初は忠実で写実的な傾向の強い仏像制作であった。だが、やがて変革し、破壊への証として「円空仏のエッセンス」である護法神の誕生を経て、まもなく「自由 境地となり、自在な作風の仏像」が精力的につくられるようになる。こうした数々の円空仏に対面して、「ユーモアと慈悲」、「遊びと荘厳」の芸術創造の真髄を見出す著者の熱狂が、一読、爽やかに噴きこぼれるように伝わってくる。
現実への深い絶望と理想の世界を前に歓喜する仏の躍動するエネルギーは、大いなる笑いになって現れる。現実を絶対肯定する精神の表現として、これこそ「哄笑の交響楽」であり、「円空の思想の中心は生きている喜び、楽しみを礼賛すること」であるという。
「心に花を絶やさず、心はいつも花であった」円空の創造と苦悩の根源的エロスは、常にまばゆい祭典のように光輝いている。神と仏の共感のシンフォニーを肉声とする強靭な現実肯定の精神とは、永遠に遊び狂いつづける清らかさということであろうか。
「私もこの歳になってようやく菩薩の遊び、円空の遊びがわかってきた」のであり、「私は円空の思想の中心は生きている喜び、楽しみを礼賛することであると思う」という論述には、並々ならぬ躍動感が漲る。
また本書には、著者・梅原猛の生の悲しみの水脈に沿う蒼白の呼吸遣いが静かにとおりぬけてゆく。弾ける歓喜とともに、円空の抱えた深い闇に、著者の悲哀が重なる。
「まつばり子の悲しみは、まつばり子同士でなければ分からないかもしれない。私もまた円空と同じ星の下に生まれたので、まつばり子の気持ちが痛いほどよく分かる」という。円空が慕う泰澄・行基もまたまつばり子であった。
一巻は天を衝いて歓喜大笑する円空と、永遠のディオニュソス使徒たる著者の法楽の遊びの華やぎに満ちている。」 ―図書新聞2006.12.20書評―


―今月の購入本―
S.J.グールド「ワンダフル・ライフ」ハヤカワ文庫
副題は「バージェス頁岩と生物進化の物語」。カナダのバージェス頁岩に見出されたカンブリア紀の動物群を詳細に紹介しつつ、進化のシナリオに偶然性の関与が大きいことを解く93年初訳の文庫化本。自然陶太の作用を最大限に重視する漸進的進化論者のドーキンスに対して偶発性も重視する断続的進化論者グールドの代表作とされる。

S.J.グールド「フルハウス−生命の全容」ハヤカワ文庫
副題は「四割打者の絶滅と進化の逆説」。著者曰く前著「ワンダフル・ライフ」に対をなす書と。生命の進化がランダム・ウォーク-酔っぱらいのヨロヨロ歩き-と同じであることを詳細に論証し、生命の進化は偶然が支配してきた複線的かつランダムな確率過程であって、決して人類は必然の存在ではなく、生命世界の全容-フルハウス-から見れば微々たる存在に過ぎないと説く。

D.タメット「ぼくには数字が風景に見える」講談社
映画「レインマン」やTVドキュメント「ブレインマン」で知られたサヴァン症候群のD.タメットが自ら語る心の遍歴。

脳科学総合研究センター「脳研究の最前線 -上」ブルーバックス
脳科学研究センター「脳研究の最前線 –下」ブルーバックス
創立10周年を迎えたという産学官協働のセンター監修による「脳とこころ」問題の最新理解を12名の研究者が集積する。上巻の副題は「脳の認知と進化」、下巻においては「脳の疾患と数理」と題される。

吉田簑助「頭巾かぶって五十年 -文楽に生きて」淡交社
文楽人形遣い吉田簑助が芸歴50年を経て紡ぐ芸談の数々とその半生記。

広河隆一編集「DAYS JAPAN -沖縄・海と人々-2008/03」
他にARTISTS JAPAN 56-藤島武二 57-坂本繁二郎 58-長谷川潔 59-竹内栖風 60-浅井忠


―図書館からの借本―
S.カウフマン「カウフマン、生命と宇宙を語る」日本経済新聞社
副題に「複雑系からみた進化の仕組み」。著者はウィトゲンシュタインの「探求」に動かされつつ、複雑系の思考を基に、物理学をはじめとした自然科学の前提そのものを問い直し、生命科学宇宙論、はては経済学にも新たな洞察を与えようとする。

J.ダイアモンド「銃・病原菌・鉄 −下」草思社
下巻ではとりわけ言語表記の問題を軸に人間の歴史における各大陸間のさまざまな差違とその成り立ちを明らかにしていく。

梅原猛歓喜する円空」新潮社
人生の晩年に至って著者梅原猛は「まつばり子-私生児-」円空の境涯に自身の身の上を重ね合わせては、その謎多き生涯や数多の木像仏の芸術性、さらには彼の宗教思想を読み解きながら、はては大胆にも円空を日本文化史上の重要人物として仮構しようとする、些か思い入れ過剰気味の梅原流円空論。

尼ヶ崎彬「ダンス・クリティーク−舞踊の現在/舞踊の身体」
団塊世代の著者は80年代の小劇場演劇ブームに共感をもって迎えたと云い、続いて登場する90年代Contemporary danceに至って「ダンスマガジン」に舞踊批評を書き継いでいったらしい。

別冊日経サイエンス「感覚と錯覚のミステリー」
事故や病気で失った足の痛みを感じたり,音楽を聞くと色が見えたり,単語を聞くと味を感じたり,といった不思議な例があるように,人間の感覚はまだまだ多くの謎を秘めているらしい。神経科学や脳科学分子生物学など,さまざまな視点から感覚をめぐるミステリーを網羅する。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−15
   命婦の君より来なんどこす   

  まがきまで津浪の水にくづれ行  荷兮

次男曰く、二句一章を山里から海辺へ移し、「米」を救難見舞ら読替えた趣向だが、雛作りはもともと形代流しの祓行事であるからこの場移しは絶妙に利く。
「しのぶまのわざとて雛を作り居る」人は、実方だけではない須磨流謫の光源氏も亦そうだ、と下敷の連想が自ずとはたらくように句は作られている。

三月-やよひ-の朔日に出で来たる巳の日-上巳、後には三月三日と定める-‥‥、舟にことごとしき人形のせて流すを見給ふにも、よそへられても、しらざりし大海の原に流れ来てひとかたにやは物は悲しき、とてゐ給へる御さま、さる晴に出でて言ふよしもなく見え給ふ。-源氏・須磨-

海辺は海辺でも津浪とまで大きく曲を設けたのは、荷兮らしい警策だ。
諸注「前二句一章也。命婦ノ君ヨリ見廻ニヨコシタルトミテ附タルナリ」-秘注-、「爰は津浪に一郷一群の荒たるさまを附て、前句の米を禁裡よりの御救ひ米と執なしたるなり」-升六-、「前句とのつづき、おのづから明らかにて、とかうを論ずるにも及ばざるべきなり」-露伴-、「是も面白からぬ付方なるも是非なし」-樋口功-、「全くの心付で附味は浅薄を免れない」-穎原退蔵-、など、わかっていない、と。


⇒⇒⇒ この記事を読まれた方は此処をクリック。