真昼の馬のねぶたがほ也

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―表象の森― 自然淘汰と自己組織化

このところの陽気で桜前線は一気に北上しているそうな。
昨日、一昨日と、K女の通うピアノ教室の送り迎えに自転車を走らせたが、ちらほらと開花した桜木が不意に眼に飛び込んできては、もうそんな時期かとちょっぴり面喰らったものである。
季節の移ろいはまことに無常にして迅速、無粋者の私などはほのかに忍び寄る気配などほとんど察知していないから、いつも突然の嘱目となって驚かされる羽目となる。
さて今年は宇陀の又兵衛桜でも見に出かけてみようか。


<A thinking reed> S.カウフマン「自己組織化と進化の論理」より

「自己組織化と自然淘汰が生物世界の秩序を生んだ」

ダーウィン以前には、合理主義的形態学者と呼ばれる人々が、種は、ランダムな突然変異と淘汰の結果なんぞではなく、時間の概念を含まない形に関する法則の結果であるという考え方に満足していた。

18世紀、あるいは19世紀において最も優れた生物学者たちは、生き物のもつ形態を比較し、いまも残るリンネの分類学に基づいた階層的なグループにそれらを分類した。

ダーウィンの進化論−ランダムに突然変異したものに作用する自然淘汰
「進化とは、翼を得た偶然である」−ジャック・モノー
「進化とは、がらくたを寄せ集めて下手にいじくりまわすことである」−フランソワ・ジャコブ

ここには、偶然の出来事、歴史的偶発、除去によるデザイン設計といった概念が含まれている。
深遠な秩序が、大きな、複雑な、そして明らかに乱雑な系で発見されている。
このような創発的な秩序が、生命の起源の背後に存在するばかりではなく、今日生物でみられる多くの秩序の背後にも存在するのではないか。

自然界の秩序の多くは、複雑さの法則により、自発的に形成されたもの-自己組織化-である。
自然淘汰がさらに形を整えて洗練させるという役割を果たすのは、もっとあとになってからのことなのだ。
自己組織化と自然淘汰をともに包含する枠組み−自発的に秩序が生じ、自然淘汰がそれを念入りに作り上げる。
生命とその進化はつねに、自発的秩序と自然淘汰がたがいに受け入れあうことによって成り立ってきたのである。


「創世記‥‥」

19世紀に生まれた二つの系統の概念が合流し、その結果、星が渦巻くこの世界において、われわれは孤立した偶然の存在であるという観念が完成したといえる。

二つの系統とは、一つはダーウィンの理論であり、もう一つはS.カルノーやR.ボルツマン、J.W.ギブスらが構築した熱力学・統計力学である。後者は、一見神秘的な熱力学第二法則-エントロピーの法則-を提供した。

物質代謝や生殖の能力があること、進化できることなどを、われわれは生きている状態に特有の性質と考えている。たがいに相互作用し合い、これらの性質を示すのに十分なほど複雑な初期の分子集団から進化したものの中で、細胞は最も成功を収めたものであるにちがいない。

その一方で、細胞の形成以前に生じた生命体の起源も、まだ生物が存在しなかった世界の化学進化において、最も成功したものである。原子の地球におけるガス雲の中にあった限られた種類の分子から、生命、すなわち自己複製能力のある分子系へとつながっていく、多様な化学物質が作られた。

30億年−地球の年齢の大部分に相当する年月、単細胞生物という生命形態だけが存続した。
8億年ほど前、多細胞生物が出現した。
およそ5億5000万年前、カンブリア紀の「生物種の大爆発」−生物の主要な門のほとんどすべてが、この進化の創造の爆発で作り出された。
2億4500万年前の二畳紀における絶滅の危機−すべての種のうち96%が消えてしまったが、その反動期、多くの新しい種が進化した。

カンブリア紀の上から下へという進化の爆発の方向性と、二畳紀の下から上へと種の多様化が進んだ、その非対称性の不思議。

「最適化」問題−爆発的な多様な種の誕生と絶滅のパターン、生態系と時間の双方にまたがる雪崩的現象は、自己組織的であり、集団的創発現象であり、複雑さの法則の自然な現れであるようにみえる。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−20

  うれしげに囀る雲雀ちりちりと  

   真昼の馬のねぶたがほ也    野水

次男曰く、さえずるヒバリは揚雲雀、眠たげな貌の馬は俯き。時刻を見定め、春昼気分にも自ずと上下の別があると対にして付けている。二句一章の遣句と云ってよいが、只打添うて取出しているわけけではない。「−馬も−」と作らなかった所以だ。

ヒバリが空でさえずるのも自然の営みなら、春昼それをよそに馬が眠たげにうつむくのも自然の営み、馬耳東風とはまさにこれだわい、と眺めやっている。滑稽のたねに李白の詩句から出た格言を含ませたところがみそだ。

「前句の長閑を眠る馬也、余情に人あり」-秘注-、「東海道を春の好き日に旅するがごとき心地す」-露伴-、「真に暖和の光景を描き尽して居る」-穎原退蔵-などと云っても解にはならぬ、と。


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